ていなかった。

     三十四

 とにかく下宿を引き払って来た笹村は、また旧《もと》の四畳半へ机を据えることになった。近所にはその一ト夏のあいだに、人が大分|殖《ふ》えていた。正一と前後して産れたような子供を抱いて、晩方門に立っている内儀さんの姿も、ちらほら笹村の目についた。お銀がよくつれて来て、菓子をくれたり御飯を食べさしたりして懐《なつ》けていた四ツばかりの可愛い男の子も、しばらく見ぬまに大分大きくなっていた。その子は近所のある有福な棟梁《とうりょう》の家の実の姉弟《きょうだい》なかに産れたのだという話であった。
「自分に子をもってみると、世間の子供が目について来るから不思議ですね。」
 お銀は格子に掴《つか》まって、窓へ上ったり下りたりしているその子供の姿をじっと眺めていた。その姿はどこか影が薄いようにも思えた。
「今のうちは何にも知らないで、こうやって遊んでいるけれど、大きくなったら、これでもいろいろのことを考えるでしょうよ。」
 笹村も陰気なその家のことを考えないわけに行かなかった。嫁に行くこともできずにいる子供の母親は、近ごろまた年取った町内の頭《かしら》とおかしいなかになっていた。
 向うの煎餅屋《せんべいや》の娘が、二つになる男の子を、お銀のところへ連れ込んで来て、不幸な自分の身のうえを話しながら、子供の顔を眺めて泣いていた。その子供の父親は、芝の方のある大きな地主の道楽|子息《むすこ》であった。そして今は親から勘当されて、入獄していた。子供は女がお茶屋に奉公している時に出来たのであった。お銀も貰い泣きをしながら、子供に涎掛《よだれか》けを出してくれなどした。
「あの子は育たないかも知れませんよ。阿母《おっか》さんは心配して乳が上っているんですもの。脚など、自家《うち》の子くらいしけアありませんよ。」
「死ねばあの女の体も浮ぶんだろうが……。」と、そういう笹村は、まだ子供を育てるような心持になりきっていなかったが、それでも子供の病気をした時には、心を惹《ひ》きつけられずにはいられなかった。
 夕方お銀に抱かれて、表を見せられていた子供は、不意にどーッと乳を吐き出して、泣くことも出来ずに苦しんだ。
「あなたあなた、正一が大変ですよ……。」と、お銀は叫びながら家へ駈《か》け込んで来た。
 子供は先天的に、胃腸の弱い父親の素質を受け継いでいるように思
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