みつこし》などで、お今に似合うような柄を択《よ》って、浅井は時のものを着せることを忘れなかった。
「お今ちゃん、旦那がこれをお前さんのに買って下すったんですよ。仕立てて着るといいわ。」
お増は品物をそこへ出して、お今にお辞儀をさせたが、自分にもそれが嬉しく思えたり、妬《ねた》ましく思えたりした。お今の年ごろに経て来た、苦労の多い自分の身のうえを、考えないわけに行かなかった。
伊豆の温泉場《ゆば》では、浅井は二日ばかり遊んでいた。海岸の山には、木々の梢が美しく彩《いろど》られて、空が毎日澄みきっていた。小高いところにある青い蜜柑林《みかんばやし》には、そっちこっちに黄金色した蜜柑が、小春の日光に美しく輝いていた。
湯からあがって、谿川の音の聞える、静かな部屋のなかに、差し向いに坐っている二人のなかには、初めて一緒になった時のような心の自由と放佚《ほういつ》とが見出されなかった。そして何か話し合ったり、思い出したりしていると思うと、それが過去のことであったり、前途《さき》のことであったりした。
「前《まえ》やい――。」
浅井は海や人家などの幽《かす》かに見える山の麓《ふもと》に突っ
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