に出たお雪は、そう言って笑った。
町には灯影が涼しく動いて、濡れた地面《じびた》からは、土の匂いが鼻に通って来た。
九
日が暮れてからは、風が一戦《ひとそよ》ぎもしなかった。お増は腕車《くるま》から降りて、蒸し暑い路次のなかへ入ると、急に浅井が留守の間に来ていはせぬかという期待に、胸が波うった。しばらく居なじんだ路次は、いつに変らず静かで安易であった。先の望みや気苦労もなさそうな、お雪などのとりとめのない話に、撹《か》き乱されていた頭脳《あたま》が日ごろの自分に復《かえ》ったような落着きと悦びとを感じないわけに行かなかった。浅井一人に、自分の生活のすべてが繋《かか》っているように思われた。男の頼もしさが、いつもよりも強い力でお増の心に盛り返されて来た。
「ただいま。」
お増は鍵《かぎ》をあずけて出た、お千代婆さんの家の格子戸を開けると、そういって声かけた。
茶の間のランプが薄暗くしてあった。水口の外に、女中が行水を使っているらしい気勢《けはい》がしたが、土間にははたして浅井の下駄もあった。
「おや二階でまた始まっているんだよ。」
お増は浅井に済まないような、拗《
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