なお今に、しゃぶりついて泣きたいような気もしたのであったが、やはり自分を取り乱すことが出来なかった。
 後悔と慚愧《ざんき》とに冷めていた二人の心が、また惹き着けられて行った。家でも寝るときの浅井の姿の、側にいないことが、時々夜更けに目のさめるお増の神経を、一時に苛立《いらだ》たせるのであった。淋しい有明けの電燈の影に、お増は惨酷な甘い幻想に、苦しい心を戦《わなな》かせながら、時のたつのを、じっと平気らしく待っていなければならないのであった。
「はやくお今を引き離そう。」
 お増はじれじれと、そんなことを思い窮《つ》めるのであったが、その手段がやはり考えつかなかった。
「あの子に傷をつける日になれば、それはどんなことだって出来ますよ。」
 お増は浅井に愚痴をこぼした。
「そうすれば、お前のためにも、どうせよいことはないよ。」
 浅井は笑っていた。

     五十

 書生の時分に、学資などの補助を仰いでいた叔父の病気を見舞いに、浅井がしばらく田舎へ行っている留守の間を見て、お増が小林などと相談して、とうとうお今の姿を隠さしてしまったのは、その年ももう涼気《すずけ》の立ちはじめるころで
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