出すがいいんだ。」
 お増は捨て鉢のような言い方をして、節の伸びた痩《や》せた手に、花の親見をした。
「あれあんたが親だ。」
 お千代婆さんは、札をすっかりお増に渡した。
「奢《おご》りっこですよ、小母さん。」お増は器用な手様《てつき》で札を撒《ま》いたり頒《わ》けたりした。興奮したような目が、ちらちらしたり、頭脳《あたま》がむしゃくしゃしたりして、気乗りがしなかった。婆さんにまで莫迦《ばか》にされているようなのが、不快であった。
「何だい、またやっているのかい。」
 音を聞きつけて、二階から中学出の子息《むすこ》が降りて来た。そして母親の横へ坐って、加勢の目を見張っていた。
 お増はむやみと起《おき》が利《き》いた。
「駄目だい阿母《おっか》さん、そんなぼんやりした引き方していちゃ。」
 お増は黙って附き合っていたが、じきに切り揚げて帰った。そして家へ帰ると、わけもなく独りで泣いていた。

     四

 とろとろと微睡《まどろ》むかと思うと、お増はふと姦《かしま》しい隣の婆さんの声に脅《おびや》かされて目がさめた。お増は疲れた頭脳《あたま》に、始終何かとりとめのない夢ばかり見ていた。その夢のなかには、片々《きれぎれ》のいろいろのものが、混交《ごっちゃ》に織り込まれてあった。どうしたのか、二、三日顔を見せない浅井の、自分のところへ通って来たころの洋服姿が見えたり、ほかの女と一緒に居並んでいる店頭《みせさき》の薄暗いなかを、馴染《なじ》みであった日本橋の方の帽子問屋の番頭が、知らん顔をして通って行ったりした。お増はそれを呼び返そうとしたけれど、誰かの大きな手で胸を圧《おさ》えつけられているようで、声が出なかった。
 廊下で喧嘩《けんか》をしている、尖《とん》がった新造《しんぞ》の声かと思って、目がさめると、それが隣りの婆さんであった。そこへ後添いに来たとか聞いている婆さんは、例の禿頭の爺さんを口汚くやり込めているのであった。
「おやまたやっているよ。」
 お増はそう思いながら、やっと自分が自分の匿《かく》されている家に、蚊帳《かや》のなかで独り寝ているのだということが頭脳《あたま》にはっきりして来た。見ると部屋にはしらしらした朝日影がさし込んでいた。外は今日も暑い日が照りはじめているらしい。路次のなかの水道際《すいどうぎわ》に、ばちゃばちゃという水の音がしてバケツの鉉《つる》の響きが燥《はしゃ》いで聞えた。
 婆さんは座敷の方へ来たり、台所の方へ来たりしながら喚《わめ》いていると見えて、その声が遠くなったり、近くなったりした。爺さんも合間合間に何か言っていた。爺さんと婆さんとが夜中などに喧嘩していることは、これまでにもたびたびあった。その意味はお増にも解った。蒼《あお》い顔をしている、しんねりむっつりした爺さんのところでは、よく神さんが逃げて行った。
「あの爺さんは吝《けち》だから、誰もいつきはしませんよ。」
 お千代婆さんはそう言っていたが、そればかりではないらしかった。
「いいえ、あの爺さんは、きっと夜がうるさいんですよ。」
 お増はお千代婆さんに話したが、お千代婆さんは妙な顔をしているきりであった。
 よく眠れなかったお増は、頭脳《あたま》がどろんと澱《よど》んだように重かった。そして床のなかで、莨《たばこ》をふかしていると、隣の時計が六時を打った。お増は、朝寝をするたびに、お千代婆さんに厭味を言われたりなどすると、自分で、このごろめっきり、まめであった昔の少《わか》い時分の気分に返ることが出来てきたので、これまでのような自堕落《じだらく》な日を送ろうとは思っていなかった。小遣いの使い方なども、締っていた。
「あなたの収入はこの節いくらあるんですよ。」
 お増は浅井に時々そんなことを訊《たず》ねた。
 浅井の収入は毎月決まっていなかった。
「家の生活《くらし》は、いくら費《かか》るんですよ。」
 お増は、それも気になった。
「さあ、そいつも決まっていないね。しかし生活《くらし》には何ほどもかかりゃしない。ただ彼奴《あいつ》は時々酒を飲む。それから余所《よそ》へ出て花をひく。それが彼《あれ》の道楽でね。」
「たまりゃしないわ、それじゃ。あなたのお神さんは、きっと何かにだらしがないんですよ。」
 浅井も、それには厭気がさしていた。
「私なら、きっときちんとして見せますがね。」
 お増は自信あるらしく言った。そしてしばしば生活の入費の計算などをして見るのであった。それがお増には何より興味があった。
「おや、人の家の生活費《くらし》の算盤《そろばん》をするなんて自分のものにもなりゃしないのに。莫迦莫迦《ばかばか》しい、よそうよそう。」
 お増は、そう言ってつまらなさそうに笑い出した。

     五

 ここへ落ち着いてから、
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