火鉢の側へ来て、茶を飲んでいた。餉台《ちゃぶだい》におかれたランプの灯影《ひかげ》に、薄い下唇《したくちびる》を噛《か》んで、考え深い目を見据《みす》えている女の、輪廓《りんかく》の正しい顔が蒼白く見られた。
「けどその片《かた》はじきにつくんだ。それにあの女には、喘息《ぜんそく》という持病もあるし、とても一生暮すてわけに行きゃしない。」
 男は筒に煙管《きせる》を収《しま》いこみながら、呟《つぶや》いた。
「喘息ですって。喘息って何なの。」
「咽喉《のど》がぜいぜいいう病気さ。」
「ううん、そんなお客があったよ。あれか。」
 お増は想い出したように笑い出した。
「お酒飲んだり、不養生すると起るんだって、あれでしょう。厭だね。あなたはそんなお神さんと一緒にいるの。」
 お増は顔を顰《しか》めて、男の顔を見た。男はにやにや笑っていた。
「でも、そんなに世話になった人を、そうは行きませんよ。そんな薄情な真似が出来るもんですか。」
「なに、要するに金の問題さ。」
「いいえ、金じゃ出て行きませんよ。それに、そんな人は他《ほか》へ片着くてわけに行かないでしょう。」
 お増は考え深い目色をした。しかし深く男を追窮することも出来なかった。
「あなたの神さんを、私一度見たいわね。」
 お増は男の心でも引いて見るように言った。
「つまらない。」
 男は鼻で笑った。
「それに、こんなことが知れると、出すにしても都合がわるい。」
「やはりあなたはお神さんがこわいんだよ。」
「こわいこわくないよりうるさい。」
「じゃ、あなたのお神さんはきっと嫉妬家《やきもちやき》なんだよ。」
「お前はどうだい。」
「ううん、私はやきゃしない。こうやっているうちに、東京見物でもさしてもらって、田舎《いなか》へ帰って行ったっていいんだわ。」
 お増はそう言って笑っていたが、商売をしていた時分の傷のついたことを感ぜずにはいられなかった。
 近所が寝静まるころになると、お増はそこに独《ひと》りいることが頼りなかった。床に入ってからも、容易に寝つかれないような晩が多かった。夜の世界にばかり目覚めていたお増の頭には、多勢の朋輩《ほうばい》やお婆さんたちの顔や声が、まだ底にこびりついているようであった。抱擁すべき何物もない一晩の臥床《ねどこ》は、長いあいだの勤めよりも懈《だる》く苦しかった。太鼓や三味《しゃみ》の音も想い出された。
 男の傍《そば》にいる神さんの顔や、部屋の状《さま》が目に見えたりした。

     三

「お増さん、花をひくからお出でなさい。」
 お増が大抵一日入り浸っている向うの家では、お千代婆さんが寂しくなると、入口の方から、そういって声かけた。
 その家では、男の子供の時分の友達であった長男が、遠国の鉱山に勤めていた。小金を持っているお千代婆さんは、今一人の少《わか》い方の子息《むすこ》の教育を監督しながら女中一人をおいて、これという仕事もなしに、気楽に暮していた。
 お増はここへ来てから、台所や買物のことでなにかとお千代婆さんの世話になっていた。髪結の世話をしてもらったり、湯屋へつれていってもらったり、寄席《よせ》へ引っ張られて行ったりなどした。
「何にも知らないものですから、ちと何かを教えてやってください。」
 お増を連れ込んで来た時に、男はそう言ってお千代婆さんに頼んだ。
「浅井さん、あなたそんなことなすっていいんですか。知れたらどうするんです。私までがあなたの奥さんに怨《うら》まれますよ。」
 お千代婆さんは少し強《きつ》いような調子で言った。婆さんは早く良人《おっと》に訣《わか》れてから、長いあいだ子供の世話をして、独りで暮して来た。浅井などに対すると、妙に硬苦《かたくる》しい調子になるようなことがあった。女の話などをすると、いらいらしい色が目に現われることさえあった。
 宵《よい》っ張《ぱ》りの婆さんは寂しそうな顔をして、長火鉢の側で何よりも好きな花札を弄《いじ》っていた。
「差《さ》しで一年どうですね。」などと、お婆さんはお増の顔を見ると、筋肉の硬張《こわば》ったような顔をして言った。
「私それとなく神さんのことについて、今少し旦那《だんな》の脂《あぶら》を取ってやったところなのよ。」
 お増は坐ると、いきなり言い出した。
「それで浅井さんはどう言っていなさるのです。」
「出すというんですよ。」
「どうかな、それは。書生時分から、あの人のために大変に苦労した女ですよ。それに今じゃとにかく籍も入って、正当の妻ですからの。」
「でも喘息が厭《いや》だから、出すんですって。」
「そんなことせん方がいいがな。あなたもそれまでにして入《はい》り込んだところで、寝覚めがよくはないがな。」
「私はどうでもいいの。あの人がおきたいなら置くがよし、出したいなら
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