一度ちょっと訪ねたことのある友達の顔が、またなつかしく憶《おも》い出された。お雪というその友達は、お増と前後して同じ家にいた女であった。一度人の妾《めかけ》になって、子まで産んだことのあるお雪は、お増よりも大分年上であった。お増は気振りなどのさっぱりしたその女と誰よりも親しくしていた。
女の亭主は、もとかなり名の聞えた新俳優であった。ずっと以前に政治運動をしたことなどもあった。お増は、口元の苦味走った、目の切れの長いその男をよく知っていた。
「また青柳《あおやぎ》がやって来たよ。」
お雪と喧嘩などをして、切れたかと思うと、それからそれへと渡り歩いていた旅から帰って来て、情婦《おんな》の部屋へ坐り込んでいるその男の噂《うわさ》が、お増の部屋へ、一番早く伝わった。
旅稼《たびかせ》ぎから帰って来た青柳は、放浪者のように窶《やつ》れて、すってんてんになってお雪のところへ転げこんで来るのであったが、お雪は切れた切れたと言いながら、やはり男の帰って来るのを待っていた。その家でも、一番よく売れたお雪は、娘を喰いものにしている一人の母親のお蔭で、そのころ大分|自暴気味《やけぎみ》になっていた。大きなもので酒を呷《あお》ったり、気の向かない時には、小っぴどく客を振り飛ばしなどした。二人とも、今少し年が若かったら、情死もしかねないほど心が爛《ただ》れていた。傍で見ているお増などの目に凄《すご》いようなことが、時々あった。
そこを出るとき、お雪の身に着くものと言っては、何にもなかった。箪笥《たんす》がまるで空《から》になっていた。以前ついていた種のいい客が、一人も寄りつかなくなっていた。お雪は着のみ着のままで、男のところへ走ったのであった。
浅草のある劇場の裏手の方の、その家を初めて尋ねて行った時、青柳の何をして暮しているかが、お増にはちょっと解らなかった。
「良人《うち》はこのごろ妙なことをしているんだよ。」
お雪はお増を長火鉢の向うへ坐らせると、いきなり話しだした。見違えるほど血色に曇《うる》みが出来て、髪なども櫛巻《くしま》きのままであった。丈《たけ》の高い体には、襟《えり》のかかった唐桟柄《とうざんがら》の双子《ふたこ》の袷《あわせ》を着ていた。お雪はもう三十に手の届く中年増《ちゅうどしま》であった。
「へえ、何しているの。」
などとお増は、そこへ土産物《みやげもの》の最中《もなか》の袋を出しながら、訊ねた。そこからは、芝居の木の音や、鳴物《なりもの》の音がよく聞えた。
「何だか当ててごらんなさい。」
「相場?」
「そんな気の利いたものじゃないんだよ。」
お雪は莨を吸いつけて、お増に渡した。
「会社?」
「あの男に、堅気の勤務《つとめ》などが出来るものですか。」
お雪はそう言いながら、煤《すす》ぼけた押入れの中から何やら、細長い箱に入ったものや、黄色い切《きれ》に包んだ、汚らしい香炉《こうろ》のようなものを取り出して来た。
「お前さんの旦那は工面がいいんだから、この軸を買ってもらっておくんなさいよ。何だか古いもので、いいんだとさ。」
燻《ふす》ぐれた軸には、岩塊《いわころ》に竹などが描かれてあった。
六
日中の暑い盛りに、お増はまたそこへ訪ねて行った。
お増は昨夜《ゆうべ》の睡眠不足で、体に堪えがたい気懈《けだる》さを覚えたが、頭脳《あたま》は昨夜と同じ興奮状態が続いていた。薄暗い路次の中から広い通りへ出ると、充血した目に、強い日光が痛いほど沁み込んで、眩暈《めまい》がしそうであった。お増は途中でやとった腕車《くるま》の幌《ほろ》のなかで、やはり男の心持などを考え続けていた。
お雪の家では、夫婦とも昼寝をしていた。青柳は縁の爛れたような目に、色眼鏡をかけて、筒袖の浴衣《ゆかた》に絞りの兵児帯《へこおび》などを締め、長い脛《すね》を立てて、仰向けになっていた。少し離れて、お雪も朱塗りの枕をして、団扇《うちわ》を顔に当てながらぐったり死んだようになっていた。部屋のなかには涼しい風が通って近所は森《しん》としていた。鉄板《ブリキ》を叩《たた》く響きや、裏町らしい子供の泣き声などが時々どこからか聞えて来た。
「よく寝ていること。随分気楽だね。」
お増は上へあがったが、坐りもせずに醜い二人の寝姿をしばらく眺めていた。
「いくら男がいいたって、私ならこんな人と一緒になぞなりゃしない。先へ寄ってどうするつもりだろう。」
お増はそんなことを考えながら、火鉢の側へ寄って、莨を喫《ふか》していた。
「おや、お増さん来たの。」
お雪はそう言って、じきに目をさました。
「大変なところを見られてしまった。いつ来たのさ。」
お雪は襟を掻き合わせたり、髪を撫《な》であげたりしながら、火鉢の前へ来て坐った。
お増はへへと
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