笑っていた。
「この暑いのに、よく出て来たわね。」
「何だかつまらなくてしようがないから、遊びに来たのよ。」
「へえ、お前さんでもそんなことがあるの。」
 お雪は火鉢の火を掻き起しながら、「あなたやあなたや。」と青柳を呼び起した。青柳はちょっと身動きをしたが、寝返りをうつと、またそのまま寝入ってしまった。
 お雪が近所で誂《あつら》えた氷を食べながら、二人で無駄口を利いていると、じきに三時過ぎになった。かんかん日の当っていた後の家の亜鉛屋根《トタンやね》に、蔭が出来て、今まで昼寝をしていた近所が、にわかに目覚める気勢《けはい》がした。
 お増は浅井の身のうえなどを話しだしたが、お雪は身にしみて聞いてもいなかった。
「へえ、あの人お神さんがあるの。でもいいやね。そんな人の方が、伎倆《はたらき》があるんだよ。」
「いくら伎倆があっても、私気の多い人は厭だね。車挽《くるまひ》きでもいいから、やっぱり独りの人がいいとつくづくそう思ったわ。」
 青柳が不意に目をさました。
「よく寝る人だこと。」
 お雪はその方を見ながら、惘《あき》れたように笑った。青柳は太いしなやかな手で、胸や腋《わき》のあたりを撫で廻しながら、起き上った。そして不思議そうに、じろじろとお増の顔を眺めた。
「どうもしばらく。」お増はあらたまった挨拶をした。
 青柳はきまりの悪そうな顔をして、お叩頭《じぎ》をした。
「ごらんの通りの廃屋《あばやら》で、……私もすっかり零落《おちぶ》れてしまいましたよ。」
「でも結構なお商売ですよ。」
「は、この方はね、好きの道だものですから、まあぽつぽつやっているんですよ。そのうちまた此奴《こいつ》の体を売るようなことになりゃしないかと思っていますがね。」
「もう駄目ですよ。」お雪は笑った。
 間もなく青柳は手拭をさげて湯に行った。

     七

「あの人随分変ったわね。頭顱《あたま》の地が透けて見えるようになったわ。」
 お増は笑いながら、青柳の噂をした。
「ああすっかり相が変ってしまったよ。更《ふ》けて困る困ると言っちゃ、自分でも気にしているの。それに私もっと、あの社会で幅が利くんだと思っていたら、からきし駄目なのよ。以前世話したものが、皆な寄りつかなくなっちゃったくらいだもの。」
「でも何でも出来るから、いいじゃないの。」
「いいえ、どれもこれも生噛《なまかじ》りだから駄目なのよ。でも、こんな商業《しょうばい》をしていれば、いろいろな家へ出入りが出来るから、そこで仕事にありつこうとでもいうんでしょう。それもどうせいいことはしやしないのさ。」
 お雪は苦笑していた。
「それから見れば、お増さんなぞは僥倖《しあわせ》だよ。せいぜい辛抱おしなさいよ。」
 お雪は、今外交官をしている某《なにがし》の、まだ書生でいる時分に、初めて妾に行ったときのことなどを話しだした。そして当然そこの夫人に直される運命を持っていたお雪は、田舎でもかなりな家柄の人の娘であった。二人の間には、愛らしい女の子まで出来ていたのであった。
「どうしてそこへ行かないの。」
「もう駄目さ。寄せつけもしやしない。その時分ですら、話がつかなかったくらいだもの。」
 お雪はそのころのことを憶い出すように、目を輝かした。その時分お雪はまだ二十歳《はたち》を少し出たばかりであった。色の真白い背のすらりとした貴婦人風の、品格の高い自分の姿が、なつかしく目に浮んで来た。
「それがこうなのさ。黒田……その男は黒田というのよ。狆《ちん》のくさめをしたような顔をしているけれど、それが豪《えら》いんだとさ。今じゃ公使をしていて、東京にはいないのよ。そこへその時分、始終遊びに来て、碁をうったりお酒を飲んだりしていた男があったの。いい男なのよ。それが黒田の留守に、私をつかまえちゃ、始終厭らしいことばかり言うの。つまり私がその男を怒らしてしまったもんだから――そういう奴だから、逆様《あべこべ》に私のことを、黒田に悪口したのさ。やれ国であの女を買ったと言うものがあるとか、やれ男があったとか、貞操が疑わしいとか、何とか言ってさ。黒田はそれでも私に惚《ほ》れていたから、正妻に直す気は十分あったんだけれど、何分にも阿父《おとっ》さんが承知しないでしょう。そこへ持って来て、私の母があの酒飲みの道楽ものでしょう。私を喰い物にしようしようとしているんだから、たまりゃしない。黒田だって厭気がさしたでしょうよ。」
「あなた子供に逢いたくはないの。」
「逢いたくたって、今じゃとても逢わせやしませんよ。それでもその当座、託《あず》けてあった氷屋の神さんに、二度ばかりあの楼《うち》へつれて来てもらったことがあったよ。私も一度行きましたよ。もちろん母親だなんてことは、※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]《おくび》に
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