へ取りついて来る愛物の頭を撫でながら、買って来た干菓子《ひがし》などを壊《こわ》して口へ入れてやった。
「あれから誰も来ない?」
お増は家中を見廻りながら、明るい窓のところで、田舎へ出す手紙を書きなどしているお今の後から訊ねたが、やはりお柳の来たような様子はなかった。
「どうしたというんだろうね。」
何事もなければないで、お増はやはりそれが不安であった。そこに自分のために、不運な何物かが待ち設けているように思えた。
「こんなことしていたって、姉さんつまらないじゃないの。」
お今は箪笥から着替えを取り出しているお増の側から言い出した。
「着物なぞいくらあったって、日蔭者じゃしようがないじゃないの。」
堅気の田舎の家庭から巣立ちして来たばかりのお今の生《うぶ》な目には、お増の不思議な生活が、煩わしくも惨《みじ》めらしくも見えるのであった。
「それはお前さん方はそうさ。」
お増は笑っていた。
外湯に入りつけないお増は、自身湯殿へおりて、風呂の湯を焚《た》きつけたり、しばらく手にかけない長火鉢に拭巾《ふきん》をかけたりして働いていた。
日の暮れ方にお増は独りで、透《す》き徹《とお》るような湯のなかに体を涵《ひた》して、見知らぬ温泉場《ゆば》にでも隠れているような安易さを感じながら、うっとりしていた。
二十
赤坂の方で新たに借りた二階建ての家へ、やっとお増の落ち着いたのは、その年もぐっと押し詰ってからであった。それまでにお増は幾度となく、下宿と先の家との間を往来《ゆきき》したが、通りがかりに見る暮れの気の忙《せわ》しい町のさまが、そうして宙に垂下《ぶらさが》っているような不安定な心持に、一層あわただしく映った。
「これじゃお正月が来たって、しようがありゃしない。まるで旅にいるようなものだわ。」
お増はそう言いながら、いつ引き払って行くか知れない家の茶の間で、不自由な下宿では食べることの出来ない、自分の好きな煮物などで、お今と一緒に飯を食べながら言った。
そこへ浅井も、一日会社や自分の用を達《た》しに歩いていたその足で、寄って来た。
「今日ちょッと家へ行って見たよ。」
浅井は落着きのない目色をしながら、火鉢の側へ寄って来た。
「あの、奥様が旦那がお帰りになりましたらば、ちょいとでもいいから、おいで下さいましって。」
そう言って昨日の朝、お柳の方から使いが来た。それを聞いて、浅井は、そこへ廻って見たのであった。
「どんな様子でしたね。」
お増は訊いた。別れ談《ばなし》がうまく纏《まと》まるかどうかが、あの事件以来、二人の頭に懈《だる》い刺戟《しげき》を与えていたが、細君からすっかり離れてしまった浅井の心には、まだ時々かすかな反省と苦痛とが刺《とげ》のように残っていた。
「むむ別に変りはない。」
浅井は、自分から見棄てられてしまった、寂しい荒れた家のさまや、絶望の手を拡げてまだ自分に縋《すが》りつこうとしているようなお柳のやるせない顔を、今見て来たままに思い浮べながら、淋しく笑った。
「話を持ち出して見たのですか。」
「それも口を切って見たけれど、ああなると女は解らなくなるものと見えて、さっぱり要領を得ない。」
「それはそうですよ。それでどう言っているんです。」
「要するにお前を突き出してくれと言うに過ぎない。」
浅井はお柳がお増のことをいろいろ聞きたがったことなどを思い出していた。
「どうせ当人同士じゃ話の纏まりっこはありませんよ。誰か人をお入れなさいよ。」
「それにしても、目と鼻の間じゃ仕事がしにくい。早く家を見つけなくちゃ。」
新しい家の方へ、間もなく荷物がそっと運び込まれた。綺麗な二階が二タ間もあるようなその家は、前の家からみると周囲《まわり》なども綺麗で住み心地がよさそうであった。しばらくのまにめっきり殖《ふ》えた道具を、お増は朝から一日かかって、それぞれ片着けた。そして久しぶりで燥《はしゃ》いだような心持になって、そこらを掃いたり拭いたりしていた。
洒落《しゃれ》た花形の電気の笠《かさ》などの下った二階の縁側へ出て見ると、すぐ目の前に三聯隊《さんれんたい》の赭《あか》い煉瓦《れんが》の兵営の建物などが見えて、飾り竹や門松のすっかり立てられた目の下の屋並みには、もう春が来ているようであった。賑《にぎ》やかな通りの方から、楽隊の囃《はやし》などが、聞えて来た。
「ちょいと、ここならば長くいられそうね。」
置物などを飾っている浅井を振り顧《かえ》って、お増は悦《うれ》しそうに浮き浮きした調子で言いかけた。
二十一
心のわさわさするような日が、年暮《くれ》から春へかけて幾日《いくか》となく続いた。お増は暮の町を珍しがるお今をつれて、ちょいちょいした物を買いに、幾度となく通り
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