の方まで出て行ったり、台所で重詰めなど拵えるのに忙しかったが、初めて一家の主婦として、いろいろのことに気を配っている自分の女房ぶりが、自分にも珍しかった。
 羅紗《ラシャ》問屋の隠居が、引越し祝いに贈ってくれた銀地に山水を描いた屏風《びょうぶ》などの飾られた二階の一室で、浅井の棋敵《ごがたき》の小林という剽軽《ひょうきん》な弁護士と、芸者あがりのその妾《めかけ》と一緒に、お増夫婦は、好きな花を引いて、楽しい大晦日《おおみそか》の一夜を賑やかに更かした。
 お歳暮に来る人たちの出入りするたびに鳴っていた門の鈴の音も静まって、そのたびにお今に呼ばれて下へ降りて行ったお増は、やっと落ち着いて仲間に加わることが出来た。本宅の方での交際《つきあい》も、今年は残らずこっちへ移されることになったのであった。水引きのかかったお歳暮が階下《した》の茶の間に堆《うずたか》く積まれてあった。
 会社で浅井のそんなに顔の広いことを、お増はお今などの前にも矜《ほこ》らしく思った。
「へえ、またビールなの。そんなものを担ぎ込む人の気がしれないね。」
 お増は宵のうちに、もう手廻しして結ってもらった丸髷《まるまげ》の頭を据えながら、長火鉢の傍から顔を顰《しか》めていた。
「奥さん奥さん、今年はあなた有卦《うけ》に入っていますよ。」
 酒ずきな弁護士は、ぐでぐでに酔っても、まだにちゃにちゃする猪口《ちょく》を手から離さなかった。
「お柳さんの方は大丈夫、私が談《はなし》をつけてあげます。その代り私が怨《うら》まれます。少し殺生《せっしょう》だが、そのくらいのことは奥さんのために、私がきっとしますよ。」
 弁護士は、太い青筋の立った手で、猪口をお増に差しつけた。
「いいえ。どうしたしまして。私はどうだっていいんです。」
 お増は横を向いて、莨《たばこ》をふかしていた。
 除夜の鐘が、ひっそり静まった夜の湿っぽい空気に伝わって来た。やがて友達の引き揚げて行った座敷に、夫婦はしばらく茶を淹《い》れなどして、しめやかに話しながら差し向いでいた。綺麗に均《なら》された桐胴《きりどう》の火鉢の白い灰が、底冷えのきびしい明け方ちかくの夜気に蒼白《あおざ》めて、酒のさめかけた二人の顔には、深い疲労と、興奮の色が見えていた。表にはまだ全く人足が絶えていなかった。夜明けにはまだ大分|間《ま》があった。
 明朝《あした》は麗《うらら》かな、いい天気であった。空には紙鳶《たこ》のうなりなどが聞かれた。昨夜《ゆうべ》のままに散らかった座敷のなかに、ふかふかした蒲団を被《かず》いて寝ている二人の姿が、懈《だる》いお増の目に、新しく婚礼した夫婦か何ぞのように、物珍しく映った。部屋には薄赤い電気の灯影が、夢のように漂っていた。
「何だかあなたと私と、御婚礼しているようね。」
 着替えをしたお増は屠蘇《とそ》の銚子《ちょうし》などの飾られた下の座敷で、浅井と差し向いでいるとき、独りでそう思った。そこへお今も、はればれした笑顔で出て来て、「おめでとう。」とはずかしそうにお辞儀をした。健かな血が、化粧した肌理《きめ》のいい頬に、美しく上っていた。
 綱引きの腕車《くるま》で出て行く、フロック姿の浅井を、玄関に送り出したお増は、屠蘇の酔いにほんのり顔をあからめて、恭《うやうや》しくそこに坐っていた。
 家のなかが、急にひっそりして来た。羽子の音などが、もうそこにもここにも聞えた。自分は自分だけで年始に行くときの晴れ着の襦袢の襟などをつけているうちに、もう昼になって、元日の気分がどことなくだらけて来た。

     二十二

 長火鉢の側の柱にかかった日暦《ひごよみ》の頁に遊びごとや来客などの多い正月一ト月が、幻のように剥《は》がれて行った。
 お増は春になってから一度、二人打ち揃うて訪ねてくれた根岸の隠居の家へ浅井と一緒に出かけて行ったり、その連中と芝居を見に行ったりした。いつか浅井の骨折りで、それを抵当に一万円ばかりの金を借りたりなどした別荘に、隠居はお芳という妾と一緒に住んでいた。そして方々に散らかっている問屋時代の貸しなどを取り立てて月々の暮しを立てていたが、贅沢《ぜいたく》をし慣れて来た老人は、やはりそれだけでは足りなかった。時々古い軸が持ち出されたり、骨董品《こっとうひん》が売り払われたりした。色白の肉づきのぼちゃぼちゃした、目元などに愛嬌のあるお芳は、上がもう中学へ通っているこの子供たちと一緒に、劇《はげ》しいヒステレーで気が変になって東京在の田舎の実家《さと》へ引っ込んでいる隠居の添合《つれあ》いが、家政《うち》を切り廻している時分には、まだ相模《さがみ》の南の方から来て間もないほどの召使いであった。
 五十三、四になった胃病持ちの隠居は、お増の訪ねて行ったときも、いつものとおり、朝
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