子板や翫具《おもちゃ》などをこてこて買って、それを帰りがけに食べた天麩羅《てんぷら》の折詰めと一緒に提げながら、帰って来たとき、留守を預かっていたお増の遠い縁続きにあたる若い女が、景気よく入って来るその跫音《あしおと》を聞きつけて、急いで玄関口へ顔を出した。
「お今ちゃんただいま。」
 鼻を鳴らして絡《まつ》わりつく犬をいたわりながら、鉄瓶《てつびん》の湯気などの暖かく籠《こも》った茶の間へ、二人は冷たい頬を撫《な》でながら通った。
「あなたがたが出ておいでなさると、すぐその後へ女の人が訪ねて来たんですよ。」
 お今はそこへ持ち出していた自分の針仕事を、急いで取り片着けながら、細君の来た時の様子を話し出した。
「へえどんな女?」
 お増が新調のコートを脱ぎながら、気忙《きぜわ》しく訊いた。
「よくは判らなかったけれども、何だか老《ふ》けた顔していましたわ。背の高い痩せた人ですよ。それで、私がお二人ともお留守だとそう言いましたらば、名も何も言わずに、じきに帰って行きましたよ。」
「てっきりお柳《りゅう》さんですよ。」
 お増は坐りもしないで言った。
「私もそう思いました。」お今も愛らしい目を二人の方へ動かしながら言った。その顔が美しく薔薇色《ばらいろ》に火照《ほて》っていた。
「知れるわけはないはずだがね。」
 浅井は首を傾《かし》げながら呟いた。
「あなたがつけられたんですよきっと。」お増は思案ぶかい目色をした。
 浅井は目元に笑っていた。
「何、知れるものなら、こっちがどんなに用心したっていつか知れる。向うはお前一生懸命だもの。」
「それにしても、あの人きっとまた来ますよ。ことによると、どこかそこいらにまだいるかも知れませんよ。」
 お増は不安そうに言った。
「こうしているところへ踏み込まれてごらんなさい、それこそ事ですよ。私はどんなことがあったって、あの人と顔なぞ合わされやしませんよ。」
 自分たちの巣を、また他へ移さなければならぬことが、さしずめ考えられた。
「わたしお雪さんところへ、しばらく行っていましょうか。」
 お増は言い出した。
「とにかくここを出ようよ。見つかっちゃなにかと面倒だ。」
 後をお今に頼んで、二人はそこを脱け出した。そして、用心深く通りまで出ると、急いで電車に乗った。電車は空《す》いていた。そして薄暗い夜更けの町を全速力で走った。二人は疲れた体を揺られながら、お柳の気のつかないような家を、あれこれと物色したが、蒼い顔したお柳が、どこまでもへばりついて来そうに思えてならなかった。
「綺麗に手を切ってしまわなくちゃ駄目ですよ。」
 お増は暗い目をしながら、言った。
 手土産などをさげて、本郷の方のある友人の家の門を叩いたのは、もう十二時過ぎであった。その友人は、近ごろお千代婆さんのところで知合いになった、ある雑誌の記者であった。
「まあ大変おそく――。」婆さんの家で浅井の旧《もと》から知っていたその細君は、寝衣姿《ねまきすがた》で出て来て門を開けた。そこにお増が笑いながら立っていた。蔭にいる浅井の顔には、寒さ凌《しの》ぎに途中で飲んだ酒の酔いがあった。

     十九

 夜のものなどの一向手薄なそこの家に、落着きのない一晩があけると、その午後浅井はつい近所に、当分お増を置くような下宿の空間《あきま》を探しに出た。
「とうとう見つかったんですかね。こわいこわい。」などと友人の細君が三つばかりの子供に乳を呑《の》ませながら、お増の身のうえを危ぶんででもいるような目色をしていた。
「じゃまあ今度|談《はなし》がつくんでしょう。」
「どうなるか解りゃしませんよ。」
 その時二人はじめじめした茶の間の火鉢の側で、話し込んでいた。
 一時の避難所に択《えら》んだ下宿の方へ移って行ってからも、浅井が外へ出て行った後の部屋が気窮《きづま》りになって来ると、お増はちょいちょい気のおけないそこの茶の間へ茶菓子などを持ち込んで遊びに来た。そこで髪などを結うことにした。
「私も子供が一人産んでみたいような気がするね。」
 お増は無造作に自分の膝へ抱き取った子供の柔かい顔に、頬擦《ほおず》りなどしながら言った。
「貰って下さいよ一人。私のところでは、どしどし出来るそうですから。」
「ううん、くれるものか。大事に育てなけアいけないよ。」
 二、三日たつと、何もなかった下宿の部屋へ、いろいろの手廻りのものが持ち込まれた。お増は何事か起っていそうな自分の家の様子が気にかかって来ると、そっとそこへ訪ねて行った。家には毎日裁縫や料理の学校へ通うお今のほかに、気丈夫そうな知合いの婆さんが一人、留守に頼んであった。
「あ、よしよし、お前ばかりだよ。そんなにしてくれるのは。」
 お増はくんくん鼻を鳴らしながら、なつかしい主《あるじ》の膝や胸
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