すれば、何のこともないんだ。それも台所をがたつかせるようなことをしておいて、女狂いをしているとでもいうのなら、また格別だけれど。」
 その晩長火鉢の側に、二人差し向いになっている時、浅井は少し真剣《むき》になって言い出した。
 三、四杯飲んだ酒の酔《え》いが、細君の顔にも出ていた。
「それに今までは、私も黙っていたけれど、お前は少し家の繰り廻し方が下手《へた》じゃないか。」
 浅井は、不断の低い優しい調子できめつけた。
「人のことばかり責めないで、一体私の留守のまに、お前は何をしている。」
「それはあなたが、何かを包みかくしているから、私だってつまらない時は、たまにお花ぐらい引きに行きますわ。」
「私はそれを悪いと言やしない。自分の着るものまで亡《な》くして耽るのがよくないと言うのだ。」
 浅井はこの前から気のついていた、ついこのごろ買ったばかりの細君の指環や、ちょいちょい着の糸織りの小袖などの、箪笥に見えないことなどを言い出したが、諄《くど》くも言い立てなかった。
「どっちも悪いことは五分五分だ。」などと笑ってすました。

     十七

 ある晩浅井とお増とが、下町の方の年の市へ行っている留守の間に、いきなり細君が押し込んで来た。
 お増の囲われた家を突き留めるまでに費やした細君の苦心は、一ト通りでなかた。浅井が家を出るたびに、細君は車夫に金を握らしたり、腕車《くるま》に乗らないときは、若い衆を頼んで、後から見えがくれに尾《つ》けさしたりしたが、用心深い浅井は、どんな場合にも、まっすぐにお増の方へ行くようなことはなかった。
「大丈夫でござんすよ奥さん……。」
 若い衆はそう言って、細君に復命した。
「しようがないね。きっとお前さんを捲《ま》いてしまったんですよ。」
 終《しま》いに細君は素直にばかりしていられなくなった。大切な株券が、あるはずのところになかったり、債券が見えなくなったりした。それを発見するたびに、細君は目の色をかえた。どうかすると、出来るだけ立派な身装《なり》をして、自身浅井の知合いの家を尋ねまわるかと思うと、絶望的な蒼い顔をして、髪も結わずに、不断着のままで子供をつれて近所を彷徨《うろつ》いたり、蒲団を引っ被《かつ》いで二日も三日も家に寝ていたりした。
 たまに手紙や何かを取りに来る浅井の顔を見ると、いきなり胸倉を取って武者ぶりついたり、座敷中を狂人《きちがい》のように暴れまわったりした。
「そんな乱暴な真似をしなくとも話はわかる。」
 浅井はようようのことで細君を宥《なだ》めて下に坐った。
 細君は、髪を振り乱したまま、そこに突っ伏して、子供のようにさめざめと泣き出した。
 跣足《はだし》で後から追いかけて来る細君のために、ようやく逃げ出そうとした浅井は、二、三町も先から、また家へ引き戻さなければならなかった。
 宵のうちの静かな町は、まだそこここの窓から、明りがさしていたり、話し声が聞えたりした。
「どこまでも私は尾《つ》いて行く。」
 細君はせいせい息をはずませながら、浅井と一緒に並んで歩いた。疲れた顔や、唇の色がまるで死人のように蒼褪《あおざ》めていた。寒い風が、顔や頸《くび》にかかった髪を吹いていた。
 そんなことがあってから二、三日のあいだ細君は病人のように、床につききりであった。
「つくづく厭になってしまった。」
 浅井はお増の方へ帰ると、蒼い顔をして溜息を吐《つ》いていた。
「まるで狂気《きちがい》だ。」
「しようがないね、そんなじゃ……。」
 お増も眉を顰《ひそ》めた。
「しかたがないから、当分うっちゃっておくんだ。」
 浅井は苦笑していた。
 お増の家のすぐ近くの通りをうろついている犬に、細君はふと心を惹《ひ》かれた。その犬の狐色の尨毛《むくげ》や、鼻頭《はながしら》の斑点《ぶち》などが、細君の目にも見覚えがあった。犬は浅井について時々自分の方へも姿を見せたことがあった。
「奥さん、あの尨犬が電車通りにおりましてすよ。」
 買物などに出た女中が、いつかもそう言って報《しら》したことも思い出された。
 やがて犬の後をつけて、静かなその地内へ入って行った細君は、その日もその辺へ、買物に来ていたのであった。
「ポチ、ポチ、ポチ。」
 新建ちの新しい家の裏口へ入って行った犬が、内から聞える女の声に呼び込まれて行ったのは、それから大分|経《た》ってからであった。
「しかたがないじゃないか、こんなに足を汚《よご》して。」
 埃函《ごみばこ》などの幾個《いくつ》も出ている、細い路次口に佇《たたず》んでいる細君の耳に、そんな声が聞えたりした。
 晩方に細君は、顔などを扮《つく》って、きちんとした身装《みなり》をして、そこへ出向いて行ったのであった。

     十八

 浅井とお増とが、子供に贈る羽
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