よ。」
お増は男の心が疑われて来た。
「どっちへもいい子になろうたって、それは駄目よ。」
お増はそうも言ってやりたかったが、別れさしてからの、後の祟《たた》りの恐ろしさがいつも心を鈍らせた。
浅井の帰って行ったとき、細君は奥で子供と一緒に寝ていたが、女中に何か聞いている良人《おっと》の声がすると、急いで起きあがって、箪笥のうえにある鏡台の前へ立った。そして束髪の鬢《びん》を直したり、急いで顔に白粉を塗ったりしてから出て来た。
「お帰んなさいまし。」
細君は燥《はしゃ》いだ唇に、ヒステレックな淋しい笑《え》みを浮べた。筋の通った鼻などの上に、斑《まだら》になった白粉の痕《あと》が、浅井の目に物悲しく映った。
「この前、愛子という女が、京都から訪ねて来たときも、こうだった。」
浅井はすぐその時のことを想い出した。その時は浅井の心は、まだそんなに細君から離れていなかった。細君の影もまだこんなに薄くはなかった。長味のある顔や、すんなりした手足なども、今のように筋張って淋しくはなかった。
しばらく京都に、法律書生をしていた時分に昵《なじ》んだその女は、旦那取りなどをして、かなりな貯金を持っていた。そして浅井が家を持ったということを伝え聞くと、それを持って、東京に親類を持っている母親と一緒に上京したのであった。浅井はそれをお千代婆さんのところに託《あず》けておいて、それ以来の細君と自分との関係などを説いて聞かせた。女はむしろ浅井夫婦に同情を寄せた。そして一月ほど、そっちこっち男に東京見物などさしてもらうと、それで満足して素直に帰って行った。縹緻《きりょう》のすぐれた、愛嬌《あいきょう》のあるその女の噂《うわさ》が、いつまでもお千代婆さんなどの話の種子《たね》に残っていた。
「浅井さんが、よくまあ、あの女を還《かえ》したものだと思う。」
お千代婆さんは、口を極《きわ》めて女を讃《ほ》めた。
女が京へ帰ってからも、浅井は細君と相談して、よくいろいろなものを贈った。女の方からも清水《きよみず》の煎茶茶碗《せんちゃぢゃわん》をよこしたり、細君へ半襟を贈ってくれたりした。
「お愛ちゃんはどうしたでしょうねえ。」
消息が絶えると、細君も時々その女の身のうえを案じた。
「もう嫁入りしたろう。」
そう言っている矢先へ、思いがけなく女からまた小包がとどいた。女はやっぱり自分の体を決めずにいるらしかった。宿屋かお茶屋の仲居でもしているのではないかと思われた。
浅井はその女のことを、時々思い占めていたが、道楽をしだしてから逢ったいろいろの女の印象と一緒に、それも次第に薄れて行った。
十六
浅井は、妻が傍に自分の顔を眺めていることを思うだけでも気窮《きづま》りであったが、細君も手紙などを整理しながら、自分の話に身を入れてもくれない良人の傍に長く坐っていられなかった。
「あの静《しい》ちゃんがね。」
細君は、押入れの手箪笥のなかから、何やら古い書類を引っくら返している良人を眺めながら、痩《や》せた淋しげな襟を掻き合わし掻き合わし、なつかしげな声でまた側へ寄って来た。
「静《しい》ちゃんがね、昨日《きのう》から少し熱が出ているんですがね。」
浅井は押入れの前にしゃがんで、手紙や書類を整理していたが、健かな荒い息が、口髭《くちひげ》を短く刈り込んだ鼻から通っていた。
「熱がある?」
浅井の金縁眼鏡がきらりとこっちを向いたが、子供のことは深くも考えていないらしく、落着きのない目が、じきにまた書類の方へ落ちて行った。
「……急にそんなものを纏《まと》めて、どこへ持っていらっしゃろうと言うの。」
細君は、そこへべッたり坐って嘆願するように言った。
「静ちゃんも、ああやって病気して可哀そうですから、ちっとは落ち着いて、家にいて下すったっていいじゃありませんか。」
浅井は一片着《ひとかたづ》け片着けると、ほっとしたような顔をして、火鉢の傍へ寄って、莨をふかしはじめた。持ち主の知合いに頼まれて、去年の冬から住むことになったその家は、蔵までついていてかなり手広であった。薄日のさした庭の山茶花《さざんか》の梢《こずえ》に、小禽《ことり》の動く影などが、障子の硝子越《ガラスご》しに見えた。
やがて奥へ入って行った浅井は、寝ている子供の額に触ったり、手の脈を見たりしていたが、子供はぱっちり目を開いて、物珍しげに浅井の顔を眺めた。
「静ちゃんお父さんよ。」
細君は傍から声をかけた。
「なに、大したことはない。売薬でも飲ましておけば、すぐ癒《なお》る。」
浅井は呟いていた。
「でも私も心細うござんすから、おいでになるならせめて出先だけでも言っておいて頂かないと、真実《ほんと》に困りますわ。」
浅井は笑っていた。
「お前が素直にしていさい
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