、それでも色の褪《あ》せた洋服を着ていたころと大した変化《かわり》は認められなかった。人柄な低い優しい話し声の調子や、けばけばしいことの嫌《きら》いなその身装《みなり》などが、長いあいだ女や遊び場所などで磨かれて来た彼の心持と相応したものであった。
ここへ移ってからも、お増の目には、お千代婆さんの家で、穴のあくほど見つめておいた細君の顔や姿が、始終|絡《まつ》わりついていた。
「あなたのお神さんを、私つくづく見ましたよ。」
お増はその当時よく浅井に話した。
「へえ。家内の方じゃ何とも言やしなかったよ。少しは変に思ったらしいがね。」
「そこが素人《しろうと》なんですよ。」
お増は気の毒そうに言った。
「私あの人と二人のときのあなたの様子まで目につきますよ。」
お増は興奮した目色をして、顎《おとがい》などのしっかりした、目元の優しい男の顔を見つめた。
十四
迷宮へでも入ったように、出口や入口の容易に見つからないその一区画は、通りの物音などもまるで聞えなかったので、宵になると窟《あな》にでもいるようにひっそりしていた。時々近所の門鈴《もんりん》の音が揺れたり、石炭殻の敷かれた道を歩く跫音《あしおと》が、聞えたりするきりであった。
二人きり差し向いの部屋のなかに飽きると、浅井は女を連れ出して、かなり距離のある大通りの明るみへ楽しい冒険を試みたり、電車に乗って、日比谷や銀座あたりまで押し出したりした。
小綺麗な門や、二階屋の立ち並んだ静かな町を、ある時お増は浅井につれられて歩いていた。二人は一緒に入るような風呂桶《ふろおけ》を買いに出た帰路《かえり》を歩いているのであった。桶を買うまでには、お増は小人数な家で風呂を焚《た》くことの不経済を言い立てたが、浅井はいろいろの場所におかれた女を眺めたかった。
灯影の疎《まば》らなその町へ来ると、急に話を遏《や》めて、女から少し離れて溝際《どぶぎわ》をあるいていた浅井の足がふと一軒の出窓の前で止った。格子戸の上に出た丸い電燈の灯影が、細い格子のはまったその窓の障子や、上り口の土間にある下駄箱などを照していた。お増はすぐにそれと感づけた。
「およしなさいよ。」
お増はこっちから手真似をして見せたが、男は出窓の下をしばらく離れなかった。家はひっそりしていた。
「へえ、あれが本宅?」
お増はよほど行ってから、後を振り顧《かえ》りながら言い出した。浅井は「ふん。」と笑ったきりであった。
「随分いい家ね。」お増は独《ひと》り語《ごと》のように言った。
「でも前を通れば、やっぱりいい心持はしないでしょう。可哀そうだとか何とか思うでしょう。」
「へへ。」と浅井は笑い声を洩《も》らした。
帰ってからも、お増はいろいろのことを浅井に訊ねた。
「それは毅然《しっかり》した女だ。人との応対も巧いし、私がいないでも、ちゃんと仕事の運びのつくように、用を弁ずるだけの伎倆《はたらき》はある。それは認めてやらないわけに行かんよ。その点は、私の細君として不足はないけれど――。」
浅井は言い出した。
「じゃ、なぜ大事にして上げないんです。」
「そうも行かんよ。女はそればかりでもいけない。むしろそんな伎倆《はたらき》のない方が、私にはいいんだ。」
そう言って浅井は笑っていた。
昼間お増は、その家の前を通って見たりなどした。ふと八百屋の店先などに立っている細君の姿を見たこともあった。細君は顔の丸い、目元や口元の愛くるしい子供を、手かけで負《おぶ》いなどしていた。お増は急いで、その前を通り過ぎた。
冬になると、浅井の足が一層家の方へ遠ざかった。たまに細君や子供の様子を見に帰っても、一ト晩とそこに落ち着いていられなかった。ヒステレーの嵩《こう》じかかって来た細君は、浅井の顔を見ると、いきなりその胸倉に飛びついたり、瀬戸物を畳に叩《たた》きつけたりした。浅井は蒼い顔をして貴重な書類などを入れた鞄《かばん》をさげて、お増の方へ逃げて来た。
「こら、どうだ。」
浅井は胸紐《むなひも》の乳《ち》を引き断《ちぎ》られた羽織を、そこへ脱ぎ棄てて、がっかりしたように火鉢の前に坐った。
十五
一週間の余も、うっちゃっておいた本宅の方へ、浅井はある日の午後、ふと顔を出してみた。そこへ来ているはずの手紙も見たかったし、絶望的な細君に対する不安や憐愍《れんびん》の情も、少しずつ忿怒《ふんぬ》の消え失せた彼の胸に沁みひろがって来た。長いあいだ貧しい自分を支えてくれた細君の好意や伎倆《はたらき》も考えないわけに行かなかった。
「離縁するほどの悪いことを、私に対してしていないんだから困る。」
浅井は時々思い出したように、当惑の眉を顰めた。そのたびにお増は顔に暗い影がさした。
「あなたは一体気が多いんです
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