んはそこを離れて来た。
「さあどうぞ。」
「有難うございます。」
 細君は手※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンケチ》で汗ばんだ額などを拭いていたが、間もなく上へあがって挨拶《あいさつ》をした。そして時々じろじろとお増の方を眺めた。
「この方は近所の方ですがね。」
 お千代婆さんは、お増を蔭に庇護《かば》うようにしながら言った。
「さいでございますか。」
 顔の筋肉などの硬張《こわば》ったお増は、適当の辞《ことば》も見つからずに、淋しい笑顔《えがお》を外方《そっぽ》へ向けたきりであったが、その目は細君の方へ鋭く働いていた。そして細君が何を言い出すかを注意していた。
「浅井さんも、このごろじゃ大分御景気がいいようで、何よりですわな。」
 お千代婆さんはお愛想を言いながら、お茶を淹《い》れなどした。
「何ですかね。」細君は気のない笑い方をした。
「外じゃどうだか知りませんけれど、内はちっともいいことはないんですよ。それに御存じですか、このごろは子供がいるものですから、世話がやけてしようがないんでございますよ。」
 細君は断《き》れ断《ぎ》れに言った。
「そうですってね。お貰《もら》いなすったってね。」
「何ですか。料理屋とか、待合とかの女中と、情夫《いろおとこ》との間《なか》に出来た子だそうですよ。子供がないから、貰って来たっていうんですけれど、何だか解りゃしませんよ。こちらへはちょいちょい伺いますの。」
「たまあに見えますがね。」
 お増は莨をふかしながら、じっと二人の話に聴き入っていたが、平気でそうしたなかに置かれた自分を眺めている自分の心持が、おかしいようであった。
「私|後《のち》に来ますわ。」
 お増は反物を隅の方へ片づけると、そう言って、そこを出た。そして細目に開けてあった水口の方からそっと家へ入った。
 三十分ばかり、不安な待ち遠しい時が移った。細君はじきに帰って行った。
「方々尋ねてあるいている様子だぜ。」
 お千代婆さんは、客を送り出すと、急いで下駄を突っかけてやって来た。
「お増さんも、あんなに長く引き留めておくというのが悪いわな。」
「私を何だと思っていたでしょう。」
 お増は眉根《まゆね》を顰めた。
「それは解るもんじゃない。私も何とも言い出しゃしないもんだから。」

     十三

 麹町の方へ引き移ってから、お増はどうかすると買いものなどに出歩いている浅井の細君の姿を、よそながら見ることがあった。
 そのころには、一夏過したお増の様子がめっきり変っていた。世のなかへ出た当時の、粗野《ぞんざい》な口の利《き》き方や、調子はずれの挙動が、大分|除《と》れて来た。櫛《くし》だの半襟《はんえり》だの下駄などの好みにも、下町の堅気の家の神さんに見るような渋みが加わって来た。どこか稜《かど》ばったところのあった顔の輪郭すら、見違えるほど和らげられて来た。
「ほんとにお前さんは、憎いような身装《なり》をするよ。」
 新調の着物などを着て訪ねて行くお増の帯や、襦袢の袖を引っ張って見ながら、お雪がうらやましそうに言った。
「今のうち、もっと派手なものを着た方がいいじゃないの。」
「ううん、派手なものは私に似合《にあ》やしないの。それにそんなものは先へ寄って困るもの。」
 浅井はそのころ、根岸の方の別邸へ引っ込んでいる元日本橋のかなり大きな羅紗《ラシャ》問屋の家などへ出入りしていた。店を潰《つぶ》してしまったその商人は、才の利く浅井に財政の整理を委《まか》すことにしていた。浅井はほかにも、いろいろの仕事に手を染めはじめていた。会社の下拵《したごしら》えなどをして、資本家に権利を譲り渡すことなどに、優《すぐ》れた手際を見せていた。
 お増を移らせる家を、浅井は往復の便を計って、すぐ自分の家の四、五丁先に見つけた。そこへ新しい箪笥《たんす》が持ち込まれたり、洒落《しゃれ》れた茶箪笥が据えられたりした。
「燈台下暗しというから、この方がかえっていいかも知れんよ。」
 浅井は初めてそこへ落ち着いたお増に、酒の酌《しゃく》をさせながら笑った。もうセルの上に袷羽織でも引っ被《か》けようという時節であった。新しい門の柱には、お増の苗字《みょうじ》などが記されて、広小路にいた時分、よそから貰った犬が一匹飼われてあった。ふかふかした絹布の座蒲団《ざぶとん》が、入れ替えたばかりの藺《い》の匂いのする青畳に敷かれてあった。浅井の金廻りのいいことが、ちょっとした手廻りの新しい道具のうえにも、気持よく現われていた。
 ワイシャツ一つになって、金縁眼鏡をかけて、向う前に坐っている浅井の生き生きした顔には、活動の勇気が、溢《あふ》れているように見えた。お増の目には、その時ほど、頼もしい男の力づよく映ったことはかつてなかった。
 浅井の調子は
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