ことなどを、浅井はお増にこぼした。それに病気が起ると、夜中でも起きて介抱してやらなければならなかった。それだけでも浅井の妻を嫌う理由は、充分であった。同棲《どうせい》している細君の母親も、浅井のためには、親切な老人ではなかった。部屋のなかが、始終引っ散らかっていたり、食べ物などの注意が、少しも行き届かなかったりした。
お増には、浅井も気の毒であったが、細君も可哀そうであった。細君と別れさすのが薄情なような気がしたり、意気地がないように思えたりした。
お増は長く床のなかにもいられなかった。そしてひとしきりうつらうつらと睡りに陥《お》ちかかったかと思うと、じきに目がさめた。
その日から、浅井は三、四日ここに寝泊りしていた。ちょいちょい用を達《た》しに外へ出て行っては、帰って来た。浅井はそのころいろいろのことに手を拡げはじめていた。
十一
「今日はちょっと家へ行って見て来ようかな。」
浅井はある朝寝床から離れると、少し開けてあった障子の隙から、空を眺めながら呟いた。空は碧《あお》く澄みわたって、白い浮雲の片《きれ》が生き物のように動いていた。浅井の耽り疲れた頭には、主《あるじ》のいない荒れた家のさまや、夜もおちおち眠れない細君の絶望の顔が浮んで来た。ついこのごろよそから連れ込んで来て、細君に育てさしている、今茲《ことし》四つになる女の子のことも、気にかかりだした。髪なども振り散らかしたままで、知合いや友人の家を、そっちこっち探しまわっているに決まっている細君の様子も、目に見えるようであった。
「うっかりしていると、ここへもやって来ますよ。」
お増も床の上に起き上りながら言った。
やがて、浅井が楊枝《ようじ》を啣《くわ》えて、近所の洗湯《せんとう》に行ったあとで、お増はそこらを片着けて、急いで埃《ごみ》を掃き出した。そして鏡台を持ち出して、髪を撫でつけ、鬢《びん》や前髪を立てて、顔を扮《つく》った。充血したような目や、興奮したような頬の色が、我ながら美しく鏡の面に眺められたが、頬骨の出たことや、鼻の尖って来たことが、ふと心に寂しい影を投げた。色が褪《あ》せてから見棄てられるものの悲しさが、胸に湧《わ》き起って来た。
「商売をしたものは、どうしたってそれは駄目さ。」
浅井のそう言ったことが、思い出された。
「私も早くどうかしなければ……。」
体の弱い自分の計《はかりごと》をしなければならぬということが、いつになく深くお増の心に考えられた。それからそれへと移って行くらしい、男の浮気だということも、思わないわけに行かなかった。いつ棄てられても、困らないことにさえしておけば、欲に繋《つな》がる男心の弱味をいつでも掴《つか》んでいられそうに思えた。お増は自分の心の底に流れている冷たいあるものを、感ぜずにはいられなかった。
「あの人の神さんなぞは、私に言わせれば莫迦さ。」
お増はそうも思った。勝利者のような誇りすら感ぜられるのであった。
晴れ晴れした顔をして湯から帰って来た浅井は、昨宵《ゆうべ》の食べ物の残りなどで、朝食をすますと、じきに支度をして出て行った。お増は男を送り出すときいつでも経験する厭な心持を紛らそうとして、お千代婆さんの家を訪ねた。
「へえ、それでもよく飽きもせずに、三日も四日も、寝てばかりいられたものだね。」
そう言っていそうなお千代婆さんの目の色が、嶮《けわ》しかった。
お増は、昨日《きのう》浅井と一緒に出て買って来た、銘仙《めいせん》の反物を、そこへ出して見せた。
「これを私の袷羽織《あわせばおり》に仕立てたいんですがね。」
婆さんは反物を手に取りあげて、見ていた。そして糸を切って、尺《さし》を出して一緒に丈を量《はか》りなどした。
「どうでしょう柄は。」
お増は婆さんの機嫌を取るように訊ねた。
「じみ[#「じみ」に傍点]でないかえ、ちっと。」
「私じみなものがいいんですよ。もうお婆さんですもの。」
お増は自分の世帯持ちのいいことに、自信あるらしく言った。
十二
浅井の細君が、ふとそこへ訪ねて来た。
「御免下さい。」
どこか硬いところのある声で、そういいながら格子戸を開けたその女の束髪姿を見ると、お増は立ちどころにそれと感づいた。細君は軟かい単衣《ひとえ》もののうえに、帯などもぐしゃぐしゃな締め方をして、取り繕わない風であった。丈の高いのと、面長《おもなが》な顔の道具の大きいのとで、押出しが立派であったが、色沢《いろつや》がわるく淋しかった。
細君は格子戸を開けると、見通しになっている茶の間に坐った二人の顔を見比べたが、傘《かさ》を持ったままもじもじしていた。
お増は横向きにうつむいていた。
「おやどなたかと思ったら、浅井さんの奥さんですかい。」
お千代婆さ
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