す》ねて見せたいようななつかしい落着きのない心持で、急いで梯子段《はしごだん》をあがった。
 風通しのよい二階では、障子をしめた窓の片蔭に、浅井や婆さんや、よくここへ遊びに来る近所の医者などが一塊《ひとかたまり》になって、目を光らせながら花に耽《ふけ》っていた。顔を見るたんびに、体を診《み》てやる診てやると言ってはお増に揶揄《からか》いなどするその医者は、派手な柄の浴衣《ゆかた》がけで腕まくりで立て膝をしていた。線の太いようなその顔が、何となし青柳の気分に似通っているようで、気持が悪かった。
「お帰んなさい。」
 医者が声かけた。
「どこへ何しに行っていたんです。お増さんがついていないもんだから、浅井さんがさんざんの体《てい》ですよ。」
 浅井がハハハと内輪な笑い声を洩らした。
 お増は火入れに吸殻などの燻《いぶ》っている莨盆を引き寄せて、澄まして莨を喫《ふか》していた。そしてこの二、三日男が何をしていたかを探るように、時々浅井の顔を見たが、いつもより少し日焼けがしているだけであった。
「神さんに感づかれやしないの。」
 お増は二年ばかり附き合ってから、浅井と前後してじきに家へ帰ると、蒸し蒸しするそこらを開け放しながら言い出した。向うの女中が火種を持って来てくれなどした。
 浅井はにやにやしていた。
「それでもちっとは東京の町が行《ある》けるようになったかい。」
「ううん、何だかつまらなかったから、浅草のお雪さんの家を訪ねて見たの。」
 お増は背筋のところの汗になった襦袢《じゅばん》や白縮緬《しろちりめん》の腰巻きなどを取って、縁側の方へ拡げながら言った。
「こら、こんなに汗になってしまった。」
 お増は裸のままで、しばらくそこに涼んでいた。
「何か食べるの。」
「そうだね、何か食べに出ようか。」
「ううん、つまらないからお止《よ》しなさいよ。」
 お増は台所で体を拭くと、浴衣のうえに、細い博多《はかた》の仕扱《しごき》を巻きつけて、角の氷屋から氷や水菓子などを取って来た。そして入口の板戸をぴったり締めて内へ入って来た。
 お増はこの二、三日の寂しさを、一時に取返しをつけるような心持で、浅井の羽織などを畳んだり、持物をしまい込みなどして、ちびちび酒を飲む男の側で、団扇《うちわ》を使ったり、酒をつけたりした。そして時々時間を気にしている浅井の態度が飽き足りなかった。

     十

 その晩そこに泊った浅井が、明朝《あした》目を醒《さ》ましたのは大分遅くであった。その日もじりじり暑かった。昨夜《ゆうべ》更けてから、寝床のなかで、どこかの草間《くさあい》や、石の下などで啼《な》いている虫の音を聞いた時には、もう涼しい秋が来たようで、壁に映る有明けの灯影や、枕頭《まくらもと》におかれたコップや水差し、畳の手触りまでが、冷やかであったが、睡《ねむ》りの足りない頭や体には、昼間の残暑は、一層じめじめと悪暑く感ぜられた。
 浅井を送り出してから、お増はまた夜の匂いのじめついているような蒲団のなかへ入って、うとうとと夢心地に、何事をか思い占めながら気懈《けだる》い体を横たえていた。その懈さが骨の髄まで沁《し》み拡がって行きそうであった。障子からさす日の光や、近所の物音――お千代婆さんの話し声などの目や耳に入るのが、おそろしいようであった。
「こんなことをしていちゃ、二人の身のうえにとてもいいことはないね。」
 昨夜浅井が床のなかで言ったことなどが思い出された。
「真実《ほんとう》だわ。罪だわ。」
 お増も、枕の上へ胸からうえを出して、莨を喫《す》いながら呟《つぶや》いた。お増の目には、麹町の家に留守をしている細君の寂しい姿が、ありあり見えるようであった。苦しい心持も、身につまされるようであった。
「いつかはきっと見つかりますよ。見つかったらそれこそ大変ですよ。」
 お増の顔には、悪い夢からでもさめかかった人のような、苦悩と不安の色が漂っていた。
「ふふん。」
 浅井は鼻で笑っていた。
「こんなことが、あなたいつまで続くと思って? 私だって、夜もおちおち眠られやしないくらいなのよ。第一肩身も狭いし、つくづく厭だと思うわ。あなただって、経済が二つに分れるから、つまらないじゃないの。」
「けれど、あの女もよくないよ。彼奴《あいつ》さえ世帯持ちがよくて、気立ての面白い女なら、己《おれ》だってそう莫迦《ばか》な真似はしたくないのさ。実際あれじゃ困る。」
「でもあなたのためには、随分尽したという話だわ。」
「尽したといったところで、質屋の使いでもさしたくらいのもので、そう厄介《やっかい》かけてるというわけじゃないもの、己も今では相当な待遇をして来たつもりだ。」
 留守のまに、細君が知合いの家で、よく花を引いて歩いたり、酒を飲んだり、買食いをしたりする
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