爺さんの元気のいい話を聞いているお増の胸には、しおらしい寂しさが、次第に沁み拡がって来た。お芳を誘い出して、うんと買物をしようと目論《もくろ》んでいた自棄《やけ》な欲望が、いつか不断の素直らしい世帯気に裏切られていた。
 お増は、帰りに日比谷公園などを、ぶらぶら一周りして、お濠《ほり》の水に、日影の薄れかかる時分に、そこから電車に乗った。
「お帰りなさい。」
 昨夕《ゆうべ》浅井がおそく帰ったときも、出迎えたお増は、玄関に両手をついておとなしやかに挨拶をした。そして誰が着せたか知れないような着物をぬがして、褞袍《どてら》などを着せると、それは箪笥にしまい込んだ。お増は髪なども綺麗に結って、浅井のすきな半衿《はんえり》のかかった襦袢などを着込んでいた。
 遊びに倦《う》みつかれたような浅井には、幾夜ぶりかで寝る、広々した自分の寝室《ねま》の臥床《ねどこ》に手足を伸ばすのが心持よかった。
 お増は顔を洗って、髪に櫛《くし》を入れなどしてから、昨夜《ゆうべ》室の親元から、いろいろ浅井に頼んで来た手紙を見せたりなどして、いつものようにお今に、婚礼の話などをしかけた。

     五十九

 仮にお今を迎えるための室の家が、出張店の人たちによって、じきに山の手の方に取り決められた。
 結納《ゆいのう》の目録などが、ある晩浅井へ出入りする物知りの手によって書かれたり、綺麗な結納の包みが、その男の手によって、水引きをかけられたりした。やがて、そんな品が、下座敷の床の間に景気よく並べられた。お芳夫婦から祝ってくれた紅白の真綿なども、そこに色を添えていた。
「気持のいいものね。」
 お増は座敷の真中に坐って、それを眺めながら呟いた。
 二、三日前から、またこっちへ引き移って来ているお今は、そんなものを持ち込まれるたびに、気がひけるようで、不安な瀬戸際まで、引き寄せられて来た自分の心が疑われて来たが、やはり避けるわけに行かなかった。
「私ほんとに厭な気持がして、しようがないのよ。」
 お今はお増のいないところで、溜息を吐《つ》きながら浅井に言いかけたが、浅井もしかたがないというように、黙っていた。
 台所の隅などに突っ立って、深い思いに沈んでいるお今の姿が、時々お増の目についた。
「お今ちゃん、お嫁に行くのが厭になったんだね。」
 お増は気遣《きづか》わしげに訊ねた。何か、思いがけない破綻《はたん》が来はしないかという懸念が、時々お増の心を曇らせた。
「進まないものを、私だって無理にやろうというんじゃないのよ。壊すなら、今のうちですよ。」
 お増は用事の手を休めて、そこへお今を引き据えながら気を揉《も》んだ。
「はっきりしたことを言って頂戴よ。むやみなことをして、後で取返しのつかないようなことになっても困るじゃないの。」
 結婚を破ってからの、自分とお増との不愉快な感情や、お増一家に一層|澱《よど》んで来る暗い空気、自分の不安な生活などを、お今は思わないわけに行かなかった。
 お今は、唇を噛んで、目に涙をにじませていた。
「厭になっちまうね、お今ちゃんより、私の方が泣きたいくらいなものよ。」
 お増はまた起って、奥の方へ行った。浅井は明朝《あした》結納を持って行くことになっている、その世話焼きの男と、前祝いに酒を飲んでいた。結婚の調度の並んだ、明るい部屋のなかには、色っぽい空気が漂っていた。浅井はその男の講釈などを聞きながら、ぐいぐい酒を飲んでいた。
「おかしな人、お今ちゃんが泣いているのよ。」
 お増はその男の帰ったあとの、白けた座敷の火鉢の前に坐って、莨をすいながら言い出した。膳や銚子などが、そこに散らかったままであった。
「あなたから、あの人の気をよく聴いて頂戴よ、私には何にも言いませんよ。」
 浅井は座蒲団のうえに、ぐったり横になって、目を瞑《つぶ》っていた。電気の火影が、酔いのひいたようなその額を、しらしらと照していた。
「まあいい。羽織をおだし。」
 などと、浅井はむっくり起き上ると、帯のあいだから時計を出して見た。
「お前から、ようくそう言っておおき。私が今口を出すとこじゃない。」
 浅井はそう言いながら、茶を飲んでいた。
「もうどうでもいい。」
 素直らしく浅井を送り出してから、お増はむしゃくしゃしたように、座敷へ来て坐った。

     六十

 内輪だけの式を挙げるというその当日には媒介役《なこうどやく》のその世話人夫婦と一緒に、お増夫婦もついて行った。
 五台の腕車《くるま》が、浅井の家を出たのは、午後五時ごろであった。島田に結って、白襟に三枚襲《さんまいがさね》を着飾ったお今の、濃い化粧をした、ぽっちゃりした顔が、黄昏時《たそがれどき》の薄闇《うすやみ》のなかに、幌《ほろ》の隙間から、微白《ほのじろ》く見られた。その後から
前へ 次へ
全42ページ中41ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング