浅井夫婦が続いた。
 会社の用事で、今朝《けさ》から方々駈けまわっていた浅井が、ぼんやりした顔をして帰って来た時には、お増やお今はもう湯から上って、下座敷にすえた鏡台の前で、結いつけの髪結の手伝いで、お化粧《つくり》をすましたところであった。道具の持ち出されてしまった部屋には、二人の礼服の襲《かさね》に、長襦袢や仕扱《しごき》などの附属が取り揃えられ、人々は高い声も立てずに、支度に取りかかった。厳《おごそ》かな静かさが、部屋の空気を占めていた。
 丸髷《まるまげ》に、薄色の櫛《くし》や笄《こうがい》をさしたお増は、手ばしこく着物を着てしまうと、帯のあいだへしまい込んだ莨入れを取り出して、黙って莨をすいながら、お今の扮装《つくり》の出来るのを待っていた。
「こんな騒ぎをして行ったって、一年もたてば世帯持ちになって、汚れてしまうんだよ。」
 お増は髪結が後から、背負《しょ》い揚《あ》げを宛《か》っている、お今の姿を見あげながら呟いた。
「真実《ほんとう》でございますね。」
 物馴れた髪結は、帯の形を退《しさ》って眺めていた。
「でも一生に一度のことでございますからね。私みたいに、亭主運がわるくて、二度もあっちゃ大変でございますけれど。」
 髪結はお愛想笑いをした。お増も浅井も空洞《うつろ》な笑い声を立てた。お今はきついような、不安らしい含羞《はにか》んだ顔をして、黙っていた。室との結婚の正体が、はっきり頭脳《あたま》に考えられないようであった。
 来るとか来ないとかいって、長いあいだ決しなかった父親や母親の、家の都合でとうとう来ないことになった、その日の式は、至極質素であった。
 杯のすんだ後のお今は、黒紋附を着た室と並んで、結納や礼物《れいもつ》などの飾られた床の前の方に坐っていた。松に鶴をかいた対《つい》の幅がそこにかけられてあった。田舎から代りに出て来た室の親類の人たちや、出張店の店員などが、それに連なって居並んだ。世話焼き夫婦の紹介で、一同の挨拶がすむと、親類の固めの杯が順々にまわされた。互いに顔を見合っているような重苦しい時が、静かに移って行った。
 室の叔父分にあたるという、田舎の堅い製糸業者らしい、フロックの男が、持って来た猪口《ちょく》を、浅井夫婦の前へ差し出したころ、一座の気分が、ようやくほぐれはじめて来た。
「今回は不思議な御縁で……。」
 と、その男は両手を畳について、あらためて慇懃《いんぎん》な挨拶をした。
 浅井も丁寧に猪口を返した。製糸業などの話が、じきに二人のあいだに始まっていた。
 お増夫婦のそこを出たのは、席がばたばたになってからであった。疲れたようなお今の姿も、その席にはもう見えなかった。
「これからです。徹夜《よっぴて》飲みましょうよ。」
 叔父は起ち上る浅井の手を取って、引き留めた。
 帰ったのは大分おそかった。夫婦は、静子などの寝静まった茶の間で、そのままの姿で、茶を飲みながら、いつまでも向き合っていた。
「私たちと、あの人を頼んで、一度お杯をしてみたいじゃないの。」
 お増は晴れ晴れした顔をして、奥へ着替えにたって行った。



底本:「日本の文学9 徳田秋声(一)」中央公論社
   1967(昭和42)年9月5日初版発行
   1971(昭和46)年3月30日第5刷
入力:田古嶋香利
校正:久保あきら
ファイル作成:
2003年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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