がわるいから、明後年《さらいねん》にでもなったら、療治をしましょうよ。」
 しみじみした話に、時が移って行った。
 このごろ色稼業《いろかぎょう》を止めて、溜めた金で、芝の方に化粧品屋を出した女のところからの帰りがけなどに、ふと独りでお今の二階へ寄って、疲れた体を休めて行くことなどがあった。お今は押入れから掻捲《かいま》きなどを出して来て、横になっている浅井にそっと被《き》せかけなどした。
 花で夜更《よふか》しをして、今朝また飲んだ朝酒の酔《え》いのさめかかって来た浅井は、爛《ただ》れたような肉の戦《わなな》くような薄寒さに、目がさめた。綺麗にお化粧《つくり》をして、羽織などを着替えたお今が、そこに枕頭《まくらもと》の火鉢の前にぽつねんと坐っていた。
 お今のいれてくれた茶に、熱《ほて》った咽喉《のど》や胃の腑《ふ》を潤しながら、浅井は何事もなさそうな顔をして、日の迫って来たお今の婚礼の話などをしていた。

     五十六

 埃《ほこり》っぽい窓の障子に、三時ごろの冬の日影が力なげに薄らいで来たころに、浅井はやっとそこを脱け出したが、遊びに耽り疲れた神経に、明るい外の光や騒がしい空風《からかぜ》がおそろしいようであった。先刻《さっき》まで被《き》ていた掻捲きなどの、そのままそこに束《つく》ねられた部屋の空気も、厭《いと》わしく思えて来た。
「私もそこまで出ましょうかしら。」
 お今も、今まで二人で籠っていた部屋に、一人残されるのが不安であった。
「ねえ、いけないこと?」
 お今は甘えるようにそういって、鏡の前で髪などを直していた。弄《もてあそ》ばれた自分の感情に対する腹立たしさと恥とを、押し包んででもいるような、いじらしいその横顔を、浅井は惨酷らしい目でじっと、眺めていた。
「お別れに一度どこかへ行こうかね。」
 浅井は先刻《さっき》そういって、その時の興味でお今を唆《そそ》ったのであったが、お今は躊躇《ちゅうちょ》しているらしく、紅《あか》い顔をして、うつむいていたのであった。
「どこへ行くね。」
 浅井は調子づいたような女に、興のさめた顔をして訊いたが、淡いもの足りなさが、心に沁み出していた。
「どこでもいいわ、私まだ見ないところが、たくさんあるから。」
「婚礼がすんだら、方々室さんに連れて行ってもらうといい。」
「それはそうだけれど、その前に……。」
 室の名を聞くと、お今は間近に迫って来ている晴れがましい婚礼が、頭脳《あたま》にはっきり閃《ひらめ》いたが、その考えはやはり確実ではなかった。いつとも知らず、乗せられて来たその縁談が、支度などに気のそわそわする、その日その日の気分に紛らされて来たことが、一層心苦しかった。その間にも、お今は自分の手で切盛りをする世帯の楽しさや、人妻としての自分の矜《ほこ》りなどを、時々心に描いていた。財産家だという室の家を相続する日を考えるだけでも、お今の不安な心が躍《おど》るようであった。
「ほんとにお前さんは幸《しあわ》せだよ。辛抱さえすれば、十万円という財産家の家を、切り廻して行けるんだもの。」
 室を嫌っているとしか考えぬお増のそういって聞かす言《ことば》の意味が、お今にはおかしく思えたり、自分から勧めた縁談に、気のいらいらするようなお増が、蔑視《さげす》まれたりした。
 電燈のちらちらするころに、二人は銀座通りをぶらぶら歩いていた。
 日の暮れたばかりの街に、人がぞろぞろ出歩いていた。燥《はしゃ》いだ舗石《しきいし》のうえに、下駄や靴の音が騒々しく聞えて、寒い風が陽気な店の明り先に白い砂を吹き立てていた。
「こんなところ、いつ来たって同じね。」
 お今は蓮葉《はすは》なような歩き方をして、不足そうに言った。近ごろ出来たばかりの、新しい半コートや、襟捲きに引き立つその姿が、おりおり人を振り顧《かえ》らせていた。
「どこかもっと面白いところへ連れていって頂戴よ。」
 お今は体を浅井に絡《から》みつくようにして低声《こごえ》で言った。

     五十七

 翌朝《あした》お今が訪ねて行った時、浅井もお増もまだ二階に寝ていた。
 浅井の甥の学校へ行ったあとの茶の間は、しんとしていた。そこに静子が、千代紙などを切り刻みながら、寂しげに坐っていた。昨夜《ゆうべ》すぐこの近所で別れた浅井が帰ってからの家の様子を嗅《か》ぎ出そうとでもするように、お今はいらいらしげに、そっちこっち部屋のなかを歩いていた。若い方の女中は、縁側の硝子障子に、せっせと雑巾がけをしていた。
 時計が九時を打ってから、やっと二階から降りて来たお増は、明るい階下《した》の光に、目眩《まぶ》しそうな目をして、火鉢の前に坐ると、口も利かずに、ぼんやりと莨をふかしていた。
 近ごろ浅井の入り浸っている情婦《おんな》の店の近所
前へ 次へ
全42ページ中39ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング