なかった。
 浅井の見立てで、お今に着せて見たいと思う裾模様をおかせた紋附などが、お増と三人で三越へ行ったとき註文されたのは、それから間もない十月の末であった。お今が同意とも不同意とも、はっきり言いきらないうちに、話が自然《ひとりで》に固められて行った。
 お今はどうかすると、燥《はしゃ》いだような調子で、支度などについての自分の欲望を、浅井一人の前に言い出した。お増の立てた見積りが、反抗的な甘えたお今の気分には、一つ一つ不満足であった。
 浅井のところで、どうかすると室と落ち合う時などの、髪や着物を気にする、お今のそわそわした様子が、お増の目にも憎らしく見えて来た。お今は室が帰って行くあとから、お増に見せつけ気味らしくじきに出て行ったりなどした。
「ああなると、こっちが厭になってしまいますね。もうあなたのことなどは何とも思っていやしませんよ。」
 お増は腹立たしそうに、後で浅井に話した。
「出来るだけ、支度でもよけいに拵えてもらおうという、欲だけなんですよ。」
 年のうちに内祝言《ないしゅうげん》だけを、東京ですますことに話が決まるまでに、例の店員が、いくたびとなく浅井のところへやって来たが、お今の兄からも手紙が来たり、支度の入費が送られたりした。話が何のわだかまりもなく進んで行った。
 新しい着物が仕立てあがるたびに、浅井はお今を呼びにやって、座敷でそれを着せて眺めなどした。下座敷の明るい電気の下などで、お今はふっくらした肌理《きめ》のいい体に、ぼとぼとするような友禅縮緬《ゆうぜんちりめん》の長襦袢《ながじゅばん》などを着て、うれしそうに顔を熱《ほて》らせて立っていた。汚れた足袋をぬぎすてた足の爪《つま》はずれなどが、媚《なま》めいて見えた。
「いいいい。」
 浅井はこっちからその姿を眺めながら、声かけた。
「いいね、お今ちゃんは。」
 お増も傍から、うっとりした目をして、眺めていた。
「私なぞ一度もそんなことはなかったよ。」
「己もないな」
 浅井も傍から、溜息をついた。
「あなたはあったじゃありませんか。先のお神さんの時に。」
「ううん。」浅井は薄笑いをしていた。
「見惚《みと》れていちゃいけませんよ。」
 興奮したような浅井の目に、お増は気づきでもしたように、急いでそれを脱がした。

     五十五

「どうも有難うございました。」
 脱いだ着物をきちんと畳んで、元の通り紙をかけてしまってから、お今の帰って行ったあとで、夫婦は、何かもの足りないように甘いいらいらしさを心に感じた。そこには萌黄《もえぎ》の布《きれ》の被《かか》った箪笥のうえに新しい鏡台などが置かれてあった。
「お前もちょっと着てごらん。」
 浅井はお今の長襦袢を畳むとき、お増に言いかけた。
「私? 私にこんな派手な物は似合やしませんよ。」
 体の痩せぎすな、渋い好みのお増は、着物の上へちょっと袖を片方《かたかた》通しただけでじきに止めてしまった。
「若い時分から私はそうでしたよ。」
 写真に遺《のこ》っている、お増のその年ごろの生々《ういうい》しい姿が、浅井の目にも浮んで来た。勝気らしい口元のきりりと締った、下脹《しもぶく》れの顔は、今よりもずっと色が白そうで、睫毛《まつげ》の長い冴《さ》えた目にも熱情があった。写真のお増は、たっぷりした髪を銀杏返《いちょうがえ》しに結って、そのころ流行《はや》った白い帛《きれ》を顎《あご》まで巻きつけて、コートを着ていた。田舎の町で勤めていた家の子息《むすこ》の学生と、思いきった恋をしたというお増は、やっと十八か九であった。
 古い話が二人の間に、また掘り返されはじめた。初めて商売に出て、その男を知った時のことなどが、情味に餒《う》えているような浅井の耳に、また新しく響いた。
「ねえ、あなた。」お増はしみじみしたような調子で言い出した。
「あの人の婚礼がすんだら、私たちも誰かを媒介《なこうど》に頼んで、お杯をしましょうか。あんまり年を取らないうちに、そんな写真も取っておきたいじゃないの。」
 お増はそう言って、淋しげに笑った。
「心細いやね。」
 浅井も女を憫《あわ》れむように空虚な笑い声を立てた。
「まだ我々はそんな年でもないよ。」
 横になっていた浅井は、二筋三筋白髪のちかちかする鬢《びん》のところを撫でながら言った。そうして冬になってから、いくらか肉がついて来たが、目角《めかど》などにはまだ曇《うる》みのとれない妻の顔を眺めた。
「そうするにはまずお前の体から癒してかからなけあならない。入院して、思いきって手術をしてみたらどうだ。一ト月の辛抱だ。」
「厭々。」
 お増は頭《かぶり》を振った。一ト月の入院のあいだに、家がどうなるか知れないという不安が、これまでにも始終お増の決心を鈍らせた。
「今年も来年も年廻り
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