そこを出たころには、もう灯影が町にちらついていた。
退《ひ》ける少し前に、会社へ電話のかかって来た、赤坂の女の方へ、浅井は心を惹かれていた。浅井はその女と、しばらく逢わずにいたのであった。
「どうなすって。いつかけてもあなたはいらっしゃらないのね。」
女は笑いながら、浅井の安否をたずねた。
「私あなたのことで、少しよそから聞いたことがあるのよ。」
「何だ何だ。」と、浅井は少しまごついたような返事をしたが、多分知合いの小林の妾からでも聞いた内輪のことだろうと思った。
幾年ぶりかで、浅井はその晩、お増がもといた家をそっと訪ねて見た。
そのころの女の、もうほとんど一人もいなくなったその家の、広い段梯子《だんばしご》をあがって行く浅井の心には、そこを唯一の遊び場所にした以前の自分の姿が、目に浮んで来た。
「おや、黴《かび》の生えたお客様がいらしたよ。よく道を忘れませんでしたね。」
浅井は廊下で見つかって古い昵《なじ》みの婆さんに、惘《あき》れた顔をしてそこに突っ立たれた。
四十
帰って行った当座、二、三度手紙が来たきり、ふっつり消息の絶えていたお今が、不意に上京して来たのは、翌年《よくとし》の一月も十日を過ぎてからであった。
親や兄の意志一つで、すっかり取り決められてしまった縁談が、お今の思いどおりに、壊《こわ》されそうもない事情が、最初の手紙でわかっていたが、談《はなし》の長引くうちに、先方の親たちの気の変って来たような様子が、後の音信《たより》でほぼ推測された。お今の家よりも、身代などのしっかりした嫁の候補者が、他からも持ち込まれて来た。前にしかけた談《はなし》で、かなり親たちの気に入った口も一つ二つはあった。
「……縹緻《きりょう》ばかりやかましく言う人だそうですから、これまでにもいくたびとなく、世話人を困らせたのだそうです。私はその人と見合いもしましたが、どんな人でしたかよくも見ませんでした。見合いは媒介人《なこうど》の家でしたのでしたが、私は目をつぶって、その人と結婚することに決心しました……。」
そんなことが、初めのうち手紙に書かれてあった。
「……媒介人《なこうど》の無責任から、話に少し行違いが出来たのだそうでございます。そんな財産家のうちへ、私を世話しようとしたのが、頭から間違っていたのです……。」
暮に来た手紙には、そんなことが書かれてあった。
「財産家財産家って、一体いくらあるんだ。」
浅井は手紙を読んで聞かせながら、お増に訊いたが、お今の萎《しお》れている様子が、いじらしいようであった。
「出来たと言っても、一代|身上《しんしょう》ですからね、大したことはないんでしょう。」
上京したお今の頭には、そんな事件の前後に経験された動揺がまだ全く静まりきらずにいた。お増の古の仕立て直しのコートなどを着て、一旦送り返された荷物を、また持ち込んで来た時、浅井夫婦は、晩飯の餉台《ちゃぶだい》の側で、静子を揶揄《からか》いながら、賑やかな笑い声を立てていたが、気の引けるお今は長く居昵《いなじ》んだ、そこへ顔を出すさえきまりが悪そうであった。
「ほら姉さんが来ましたよ。あなたの好きな姉さんですよ。」
お増は自分の膝に凭《もた》れかかって、含羞《はにか》んだようにお今の顔ばかり眺めている、静子に言いかけたが、顔には何の表情もなかった。
「ふむふむ。」と、浅井は莨を喫《ふか》しながら、少しずつほぐれて来るお今の話に、気軽な応答《うけこたえ》をしていたが、じきに目蓋《まぶた》の重そうな顔をして、二階へ引き揚げて行った。
「今年ほどつまらないお正月はございませんでしたよ。」
お今は次へさがって、行李《こうり》から取り出して来た土産物を、そこへ出すと、やっと落ち着いたような顔をして言い出した。
「それに、行って見て、つくづく田舎の厭なことが解りましたわ。どんなことをしても、私東京で暮そうと思いましたわ。」
「それじゃ、やっぱりこっちで片着くのさ。」お増は無造作に言った。
「お婿さんはどんな人。もう縁談がきまったの。」
お今のことがまだ思い断《き》れずにいる、その男の縁談のまだ紛擾《ごたつ》いている風評《うわさ》などが、お今の耳へも伝わっていた。
四十一
婿に定められようとしたその男の、両親たちなどとの間《なか》の、擦《す》れ擦れになった感情が衝突して、お今の上京後一人で東京へ逃げ出して来たという事実が、じきにお今にあててよこした、その男の手紙で知れた。
室鎮雄《むろしずお》と署名されたその手紙の文句は、至極簡短であったが、お今を慕う熱情が、行の間にも溢《あふ》れていた。室はやっと二十四になったばかりであった。……一度あなたに直接お目にかかって、胸にあることだけを、十分聞いて頂きた
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