いと思います。僕はそれで満足を得られます……そんな卑下した言《ことば》が連ねられてあった。
「莫迦《ばか》な男ね。」
 お増は浅井の低声《こごえ》で読みあげるその手紙を笑い出したが、お今は何の感情も動かぬらしかった。
「でもこんなに迷わせて、可哀そうじゃないか。何とかしてやったらいいじゃないの。」
 お増はお今を振り顧った。
「こんな手紙を貰って、どんな気がするの。」
「悪い気持はしないさな。」
 浅井は笑いながら手紙をそこに置いた。
「本人同士で、話ができてしまったら、親たちはどうするでしょう。」
 お増はそうも言って浅井に訊ねた。
 帰郷前よりも一層|潤沢《うるおい》をもって来たお今の目などの、浅井に対する物思わしげな表情を、お増は見遁《みのが》すことができなかった。
 夜一つに寝ているときに、お増は浅井のいないのに気がついたように考えて、ふと目のさめることがあった。活動写真でいつか見たような一場の光景が、今見た夢のなかへ現われていたことが疲れた頭に思い出された。風に揺られる蒼々した木立ちの繁みの間に、白々した路が一筋どこまでも続いていた。そこに男の女を追いかけている姿がかすかに見透《みすか》された。それが浅井とお今とであるらしかった。ふと白いベッドのなかに、雑種《あいのこ》のような目をしたお今の大きな顔と、浅井の形のいい頭顱《あたま》とがぽっかり見えだしたりしていた。今までいなかったような浅井の寝顔が、薄赤い電燈の光のなかに、黄色く濁ったように眺められるのが、覚めたお増の目に、気味が悪いようであった。
 まじまじ天井を見詰めているお増の目に、いつか気の狂って死んだというお柳の姿が、まざまざと浮き出して来た。
 時々兄や母の圧《おさ》えつける手から脱《のが》れて、東京へ行くといっては、もがき苦しんだり、家中|暴《あば》れまわったりしたというお柳の、死んだという兄からの報知《しらせ》が、浅井のところへ来たのは、ついこのごろのことであった。
 お柳は夜中に、寝所《ねどこ》から飛び出して、田舎の寂しい町を、帯しろ裸の素足のままで、すたすた交番へ駈け着けたりなどした。
「ちょいと恐れ入りますがね、今私を殺すといって、家へ男が押し込んで来ましてね……。」
 お柳はそう言いながら、蒼い死人のような顔をして、落ち窪《くぼ》んだ目ばかり光らせていた。
 そこへ兄が、跡を追ってやって来た。兄とお柳との劇しい格闘が、道傍《みちばた》に始まった。おそろしい力が、痩せ細ったお柳の腕にあった。引き摺られて行ったお柳は、兵児帯《へこおび》で縛られて、寝所に臥《ね》かされたが、もうもがく力もなかった。
 兄の留守のまに、お柳は時々|荒《あば》れ出して、年|老《と》った母親をてこずらせた。近所から寄って来た人々と力を協《あわ》せて、母親はやっと娘を柱に縛りつけた。
 狂気《きちがい》の起りそうな時に、井戸端へつれて行って、人々はお柳の頭顱《あたま》へどうどうと水をかけた。
 お柳の体はみるみる衰えて行った。

     四十二

 お柳の訃《ふ》が来たときに、お増からも別にいくらかの香奠《こうでん》を贈ったのであったが、兄はそのころ、床についた妹を、ろくろくいい医者にかけることも出来ないほど、手元が行き詰っているらしかった。死ぬまでに、小林を通して、いくたびとなく金の無心が浅井のところへ来た。浅井は三度に一度は、その要求に応じていた。
「そのお金が、お柳さんの身につけばよござんすがね。」
「どうせそれは兄貴の肥料《こやし》になるのさ。狂人《きちがい》が何を知るものか。」浅井は苦笑していた。
 悲惨なお柳の死状《しにざま》が、さまざまに想像された。おそろしい沈鬱《ちんうつ》に陥ってしまった発狂者は、不断は兄や嫂《あによめ》などとめったに口を利くこともなかった。別室に閉じ籠《こ》められた病人を看護している母親に、おどおどした低声《こごえ》で時々話をするきりであった。兄を怕《おそ》れたり、嫂に気をかねたりする様子が、ありありその動作に現われていた。ちょっとした室外の物音や、話し声にも、不安な目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》るほど、鋭い神経が疑り深くなっていた。
 大分たってから、一度上京したついでに訪ねて来た母親から、そんなことが小林によって伝わってから、お増は時々お柳の夢を見ることがあった。
「お前の神経も少し異《あや》しいよ。ふとしたらお柳が祟《たた》っていないとも限らない。」
 浅井はそう言って揶揄《からか》った。
 お今から、何の返辞をも受け取ることのできなかった室が、大分たってから、一度浅井の方へ出向いて来た。室はいくたびとなく、門の前を往来《ゆきき》してから、やっと入って来た。丈《たけ》の高い痩せぎすなその姿が、何気なしにそこ
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