でちがいますわ。男はさほどでもないけれど、女は年とるとまったく駄目ね。」
 浅井はやっぱりふふと笑っていた。
 浅井が床を離れて、朝飯をすまし、新調の洋服に身を固めて、家を出たときには、活動の勇気と愉快さが、また体中の健やかな脈管に波うっていた。込み合う電車のなかで、新聞を拡げている彼の頭脳《あたま》には、今朝立ったお今の印象さえ、もう忘られかけていたが、帰ってからの女の身のうえのどうなって行くかが、何となし興味を惹いた。
 殺人や自殺などの、血腥《ちなまぐさ》い三面雑報の刺戟づよい活字に、視線の落ちて行った浅井の心に、田舎へ帰ってから、気が狂ったというお柳のことが、ふと浮んで来た。浅井は目を瞑《つぶ》って、別れたその女の悲惨な成行きを考えて見た。一緒にいるころ、心に絡《まつ》わりついていた女の厭《いと》わしい性癖や淫蕩《いんとう》な肉体、だらしのない生活、浪費、持病、ヒステレカルな嫉妬《しっと》――それらが、今も考え出されるたびに、劇《はげ》しい憎悪《ぞうお》の念に心を戦《おのの》かせるのであった。
「お今なども、年とったらやっぱりあんなになるかも知れない。」
 浅井はそうも考えた。
 金に目の晦《くら》んだ兄に引き摺《ず》られて、絶望の淵《ふち》へ沈められて行った、お柳に対する憐愍《れんびん》の情が、やがて胸に沁《し》み拡がって来た。
 お柳の狂気《きちがい》になったことは、小林へあてての、お柳の兄からの手紙によって知れた。持って行った手切れの金などの、じきに亡くなってしまったことなどが、その手紙の文句から推測された。東京にいる時分に、もう大分兄の手で費消されたような様子も、小林の話でわかっていた。田舎へ帰ったときには、お柳のものといっては、もう何ほども残っていないらしかった。兄は不時に手にした大金に、急に大胆な山気が動いて、その金を懐にして相場に手を出したらしかった。
 お柳がふとある晩、東京へ行くといって、騒ぎ出したのは、この冬の初めのことであった。子供などを多勢かかえた嫂《あによめ》から厄介《やっかい》ものあつかいにされるのを憤って、お柳はそれまでにも、二度も三度も、兄と大喧嘩を始めたのであった。
「今となっては、君よりも、君の細君よりも、自分の兄を呪《のろ》っているらしいのだ。」
 浅井は小林からそんなことも聞かされたのであった。

     三十九

 会社の事務室へ入って行った浅井は、いつもかけつけの、帳簿などのぎっしり並んだデスクの前に腰かけたが、心が落ち着かなかった。建築物の請負いや地所売買の仲介などを営業としているその会社で、浅井は近ごろかなりな地位を占めて来たが、そこまで漕ぎつけるまでには、一身上にいろいろの変遷があった。会社内の誰にもそんなに頭を下げずに通されるようになった浅井は、時々過去を振り顧《かえ》ったり、立っている自分の脚元を眺めずにはいられなかった。関係したさまざまの女が、頭脳《あたま》に閃《ひらめ》いた。経済や自分の機嫌を取ることの上手なお増と一緒になってから、めきめき自分の手足が伸びて来た。
「お柳さんのような人と一緒にいては、とても有達《うだつ》があがりませんよ。」
 いつかそんなことをお増にいわれたが、それはそうかも知れないと、浅井も心に頷けた。
「それに、己もちょうど働きざかりだ。これで女にさえ関係しなければ、己も一廉《ひとかど》の財産ができる。」
 浅井は呟いたが、それだけではやっぱりその日その日の満足が得られそうもなかった。
「ちっと女からも取っておいでなさいよ。」
 お増は笑談らしく言うのであった。
「それじゃやっぱり駄目だ。金を費《つか》うからこそ面白いんだ。」
 客に接したり、手紙の返辞を書いたりしていると、じきに昼になった。紛糾《こぐらか》った事務に没頭した彼の忙しい心に、時々お今のことが浮んだ。隔たってからの少女から、どんな手紙が書かれるかが、待ち遠しいようであったが、仮に女を自分のものにしてしまってからの、内外の事件の煩わしさが、今から想像できるようであった。
 四時ごろに、会社を出て行った浅井と、一人の友達の姿が、じきにそこからほど近い、とある新道のなかへ入って行った。隘《せま》いその横町には、こまごました食物屋が、両側に軒を並べていた。やがて二人は、浅井が行きつけの小じんまりした一軒の料理屋の上り口に靴をぬぐと、堅い身装《みなり》をした女に案内されて、しゃれた二階の小室《こま》へ通った。
 箸と猪口《ちょく》の載った会席膳が、じきに二人の前におかれて、気づまりなほど行儀のいい女が、酒のお酌をした。ほどのいい軽い洒落《しゃれ》などを口にしながら、二人はちびちび飲みはじめたが、会社の重役や、理事の風評《うわさ》なども話題に上った。女遊びの話も、酒の興を添えていた。

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