子供の育って行くのを楽しみに、気の張りつめたその日その日を送っていた。女と子供との関係は、母子というよりは、保姆《ほぼ》と幼児との間柄に近かった。一生夫をもたずに、子供を仕立てて行こうと誓った女の志は、ますます堅かった。
「おそろしい厳しい躾《しつけ》をしますよ。」
その母親とも親しくなったお増は、おかしいほど子供に対する言葉遣いなどを上品ぶる、女の様子を見て来て浅井に話した。
「それごらん、そんなお手本が、ちゃんと近所にあるじゃないか。」浅井が言い出した。
「それもやっぱり欲にかかっているからですわ。」
「それもあるが、子供に対する愛情もある。」
「それは腹を痛めた子ですもの、どうしたって違いますわ。」
外へ出るとき、お増はいつも静子をつれて行った。子供は日増しに母親と気安くなって来た。
田舎へ帰ってからのお柳の病気がちなことが、夫婦の耳へもおりおり伝わって来た。
「死んだらお前にとっつくだろう。」
浅井は時々お増を揶揄《からか》った。
三十
盆過ぎに会社から休暇を貰った良人と一緒に、静子をつれて、一ト月たらずも、そっちこっち旅をして帰って来たお増は、顔や手首が日に焦《や》けて、肉も緊《しま》って来たようだったが、健康は優《すぐ》れた方ではなかった。一日青々した山や田圃《たんぼ》を見て暮したり、ぴちぴちする肴《さかな》に、持って来た葡萄酒《ぶどうしゅ》を飲んだり、胸のすがすがするような谿川《たにがわ》の音にあやされて、温泉場《ゆば》の旅館に、十幾年来覚えなかった安らかな夢を結んだりした時には、爛《ただ》れきった霊《たましい》が蘇《よみがえ》ったような気がしたのであったが、濁った東京の空気に還《かえ》された瞬間、生活の疲労が、また重く頭に蔽《お》っ被《かぶ》さって来た。
汽車がなつかしい王子あたりの、煤煙《ばいえん》に黝《くす》んだ夏木立ちの下蔭へ来たころまでも、水の音がまだ耳に着いていたり、山の形が目に消えなかったりした。長いあいだ見た重苦しい自然の姿が、終いに胸をむかむかさせるようであった。
「静《しい》ちゃん。もう東京よ。」
お増は胸をどきつかせながら、心が張り詰めて来るのを感じた。
日暮里《にっぽり》へ来ると、灯影《ひかげ》が人家にちらちら見えだした。昨日まで、瀑《たき》などの滴垂《したた》りおちる巌角《いわかど》にたたずんだり
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