を持って駈け出して行くのであったが、男の子は時々呼び込まれて家のなかへも入って来た。色の蒼い、体の※[#「兀+王」、第3水準1−47−62]弱《ひよわ》そうなその子は、いろいろな翫具《おもちゃ》を取り出してしばらく静子と遊んでいるかと思うと、じきに飽きてしまうらしかった。
「坊ちゃんのお父さんは何をなさるの。」
 二人で仲よく遊んでいる子供のいたいけな様子に釣《つ》り込まれながら、お増はいつか自分の荒く育った幼年時代のことなどを憶い出していた。町垠《まちはずれ》にあったお増の家では、父親が少しばかりあった田畑へ出て、精悍精悍《まめまめ》しくよく働いていた。夏が来ると、柿の枝などの年々なつかしい蔭を作る廂《ひさし》のなかで、織機《はた》に上って、物静かにかちかち梭《ひ》を運んでいる陰気らしい母親の傍に、揺籃《つづら》に入れられた小さい弟がおしゃぶりを舐《しゃぶ》って、姉の自分に揺られていた。夏になるとその子を負《おぶ》って、野川の縁《ふち》にある茱萸《ぐみ》の実などを摘んで食べていたりした自分の姿も憶《おも》い出せるのであった。
 男の子は、じきに迎いに来る女中につれられて帰って行った。
「僕の父さん博士でっ。」
 子供はお増の問いに答えた。
 その博士が、ある大学の有名な教授であることが、おりおり門口などで口を利き合うほどに心易くなった女中の口から、お増に話された。
「旦那さまは、それでも一年に四、五回もいらっしゃるでしょうかね。」
 そう言う女中は、小石川の方にある博士の邸《やしき》のことについては何も知らなかった。しかし子供の母親が、逗子《ずし》にある博士の別荘に召使いとして住み込んでいる時分に、ふと博士の胤《たね》を娠《はら》んだのだということや、ある権門から嫁《とつ》いで来た夫人の怒りを怖れてそのことが博士以外の誰にも、絶対に秘密にされてあることだけは知られてあった。
 門へ出て、時々子供を見ている、醜いその母親の束髪姿が、それ以来お増の注意を惹《ひ》いた。年のころ五十ばかりの博士は、不断着のまま、辻俥《つじぐるま》などに乗って、たまにそこへやって来るのであったが、それは単に三月とか四月とかの纏まった生活費と養育費とを渡しに来るだけに止まっていた。女は長いあいだ頑《かたくな》な独身生活を続けて来た。そして三千四千と、自分の貯金額の、年々増加して行くと同時に、
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