、緑の影の顔に涼しく揺れる白樺《しらかば》や沢胡桃《さわぐるみ》などの、木立ちの下を散歩したりしていたお増の顔には、長いあいだ熱鬧《ねっとう》のなかに過された自分の生活が、浅ましく振り顧《かえ》られたり、兄や母親たちと一緒に、田舎に暮しているお柳の身のうえが、哀れまれたりした。
「こんなところに一生暮したら、どんなにいいでしょう。」
 お増は涙含《なみだぐ》んだような目色をして、良人に呟いた。
 子供の時分、二、三度遊びに行ったことのある、叔父の住まっている静かな山寺のさまが、なつかしく目に浮んだりした。
「あなたに棄てられたら、私あすこへ行って、一生暮しますよ。」
 気を紛らすもののない山の生活が、孤独のたよりなさと、生活のはかなさとに、お増の心を引き入れて行った。
「何といったって、自分の家が一番いいのね。」
 お増は、お今などに世話をしてもらった風呂から上ると、ばさばさした浴衣姿《ゆかたすがた》で、縁側の岐阜提灯《ぎふぢょうちん》の灯影に、団扇《うちわ》づかいをしながらせいせいしたような顔をしていた。
 簾《すだれ》を捲《ま》きあげた軒端《のきば》から見える空には、淡い雲の影が遠く動いていた。星の光も水々していた。
 濡《ぬ》れた髪に綺麗に櫛《くし》を入れて、浅井の坐っているお膳のうえには、お今が拵えた料理が二、三品並んでいた。浅井は、この夏期の講習で、大分料理の品目の多くなったらしいお今の手際を、物珍しそうに眺めながら、もうちびちび酒を始めていた。
 お今が一ト夏のうちに、めっきり顔や目などに色沢《つや》や潤いの出て来たことがお増の目に際立って見えた。
「お前さん、よっぽど幅がついたよ。」
「めっきり女ぶりがあがった。」
 浅井も気持よげにその顔を眺めた。
「若いものはやっぱり違いますよ。私なぞ、いくら旅行したって駄目。」
「あら、あんな……田舎の女ばかり見ていらしったせいでしょう。私こんなに肥《ふと》って、どうしようかと思いますわ。」
 お今は浅井の出した猪口にお酌をした。

     三十一

 冬になってから、お増は再び浅井に送ってもらって、伊豆の温泉《ゆ》へ入浴に出かけて行ったが、その時も長くそこに留まっていられなかった。
 冷えがちな細い腰に、毛糸や撚《ネル》などの腰捲きを、幾重にも重ねていたお増は、それまでにも時々医者に診《み》てもらいなどしてい
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