《けんか》したとかいって、一度泊りがけでやって来たことがあったが、その時はじきに青柳が来て連れて行った。
黒い眼鏡などをかけた青柳は、そのおり浅井にもちょっと逢って挨拶をして行った。あまり風体《ふうてい》のよくない、そんな男の出入りすることは、浅井には快くはなかったが、お増は浅井に秘密《ないしょ》で、時々お雪に小遣いなどを貸していた。
「何だか自分の作った唄《うた》の本を出すんだとさ。」
お雪は芝居の方がすっかり駄目になった青柳が、流行節のような自作の読売りを出版するその費用の融通を、お増に頼みに来たりした。
「あの人駄目よ。あんた一生苦労しますよ。それよりかあの人と手を切って、今のうち黒田に泣きついて、何とかしてもらったらどう。その話なら宅《うち》の旦那に相談したら、先方へ交渉《かけあ》ってもらえないこともなかろうと思うがね。」
お増は、お雪が先に見込みもない芸人などに引き摺《ず》られているのを、歯痒《はがゆ》く思ったが、長いあいだ腐れあった二人のなかは、手のつけようもないほど廃頽《はいたい》しきっているのであった。
前垂がけに、半襟の附いた着物を着て、ずるりと火鉢の傍へ寄って来たお雪は、地の荒れた顔にだらけた笑いを浮べていた。ひとしきりこの女にあった棄て鉢な気分さえ見られなかった。
「へえ。また喧嘩したの。」
お増は気なしに訊いた。
「いいえ、そうじゃないの。」
お雪は莨をふかしながら、にやにやしていた。
「青柳が少し仕事をするんだとさ。」
「仕事って何さ。」
「大変な仕事さ。」
お雪はやはり笑っていた。
「後家さんでも瞞《だま》すのかい。」
「まあそういったようなもんさ。その相手がよそのお嬢さんなの。」
「へえ、罪なことをするね。」
お増はそう思いながら、友達の顔を眺めていた。
お雪は少し顔を赧らめながら、「それには私が家にいては都合が悪いのだとさ。」
「家へ引っ張り込むの。」
「多分そうでしょうよ。」
お雪はきまり悪そうにうつむいていた。
「わたし、あの男あんなに悪い奴じゃないと思っていたら……どうして。」
お雪は呟いた。
「芸じゃ駄目だから、色で金儲けをするなんて、あの男も堕落したものさ。あんな男に引っかかるお嬢さんがあるのかと思うと、気の毒のような気がするわ。それアお前さん、先《さき》は名誉のある人だもの、そんなことが新聞にでも出て
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