んはそこを離れて来た。
「さあどうぞ。」
「有難うございます。」
 細君は手※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンケチ》で汗ばんだ額などを拭いていたが、間もなく上へあがって挨拶《あいさつ》をした。そして時々じろじろとお増の方を眺めた。
「この方は近所の方ですがね。」
 お千代婆さんは、お増を蔭に庇護《かば》うようにしながら言った。
「さいでございますか。」
 顔の筋肉などの硬張《こわば》ったお増は、適当の辞《ことば》も見つからずに、淋しい笑顔《えがお》を外方《そっぽ》へ向けたきりであったが、その目は細君の方へ鋭く働いていた。そして細君が何を言い出すかを注意していた。
「浅井さんも、このごろじゃ大分御景気がいいようで、何よりですわな。」
 お千代婆さんはお愛想を言いながら、お茶を淹《い》れなどした。
「何ですかね。」細君は気のない笑い方をした。
「外じゃどうだか知りませんけれど、内はちっともいいことはないんですよ。それに御存じですか、このごろは子供がいるものですから、世話がやけてしようがないんでございますよ。」
 細君は断《き》れ断《ぎ》れに言った。
「そうですってね。お貰《もら》いなすったってね。」
「何ですか。料理屋とか、待合とかの女中と、情夫《いろおとこ》との間《なか》に出来た子だそうですよ。子供がないから、貰って来たっていうんですけれど、何だか解りゃしませんよ。こちらへはちょいちょい伺いますの。」
「たまあに見えますがね。」
 お増は莨をふかしながら、じっと二人の話に聴き入っていたが、平気でそうしたなかに置かれた自分を眺めている自分の心持が、おかしいようであった。
「私|後《のち》に来ますわ。」
 お増は反物を隅の方へ片づけると、そう言って、そこを出た。そして細目に開けてあった水口の方からそっと家へ入った。
 三十分ばかり、不安な待ち遠しい時が移った。細君はじきに帰って行った。
「方々尋ねてあるいている様子だぜ。」
 お千代婆さんは、客を送り出すと、急いで下駄を突っかけてやって来た。
「お増さんも、あんなに長く引き留めておくというのが悪いわな。」
「私を何だと思っていたでしょう。」
 お増は眉根《まゆね》を顰めた。
「それは解るもんじゃない。私も何とも言い出しゃしないもんだから。」

     十三

 麹町の方へ引き移ってから、お増はどうかすると買い
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