一人で焦燥《やきもき》したってしようがありゃしない。」
 お増の調子がやや高くはずんで来た。
「莫迦いえ。誰のお蔭で、お前は着物なぞ満足に着られるとおもう。外で遊ぼうが何しようが、お前に不足いわれるような、無責任なことはしていないぞ。」
 気優しい浅井にしては、珍しいような言《ことば》が口から出た。
 お今はことりとも音のしない、台所でそれを聞いていた。

     四十七

 翌朝《あした》になると、お増は毎朝お今のすることに決まっている浅井のお膳拵えなどを、自分の手に一つに引き取って、さも自信のありそうな様子で、こまこまと立ち働くのであった。漬物の切り方や、盛り方などにも、自分の方が、長いあいだ気心を知っている浅井の気分に、しっくり適《あ》うところがあるように思えた。
「お早うございます。」
 お増はお今の前を、わざと生真面目《きまじめ》な顔をして、あらたまったような挨拶を、良人にして見せた。浅井がちょうど二階から下りて来たのであった。病院以来、めっきり気分のだらけて来たお今は、まだ目蓋《まぶた》などの脹《は》れぼったい、眠いような顔をして、茶の室《ま》の薄暗いところにある鏡の前へ立っては髪を気にしたり、白粉を塗ったりしていた。
 いつも気のそわそわしているお今は、今朝は筋肉などの硬張《こわば》った顔に、活き活きした表情の影さえ見られず、お増などに対する口も重かった。昨夜《ゆうべ》お増夫婦の言争いが募って、浅井が二階へあがってからも、自分に機嫌の悪かったお増が、とげとげした調子で二階へあがって行くまで、猫板のところに投《ほう》り出されてあった、自分の貰いにくくなって辞退した指環の、どこか姿を隠してしまったことや、夫婦の争いの鎮《しず》まったひっそりした夜更《よふ》けの二階のさまなどが、眠られない頭脳《あたま》を掻《か》き※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》るように苛立《いらだ》たせて、腹立たしさと悲しさとに、びっしょり枕紙を濡らしていたくらいであった。
 しっとりとした雨のふるある晩に、病院か、さもなければいつもの馴染みの何子とかいう芸者のところだとばかり思っていた浅井の、表の戸をさしてしまった夜中過ぎに、酒に酔って帰って来たときのことなどが、お今の目に、まざまざと、浮んで来た。あわてて火を起したり湯を沸かしたりする自分の傍にいる浅井と、いつと
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