のいない折々に、先刻《さっき》からお今のことで、一つ二つ言い争いをしたほど、心持が紛糾《こぐらか》っているのであった。
「己が結婚前の娘を手元において、どうしようというのだ。お今には、室という者もある。」
 浅井は鼻頭《はなのさき》で笑っていたが、病院へ来てから、どうかすると二人きりの浅井とお今とを、家に遺《のこ》しておくような場合の出来るのが、お増には不安であった。
「父さんと姉さんと、ここで何のお話していたの。」
 病人の側につけておいたお今が、交替に出て行った後などで、お増は怜悧《れいり》そうな曇《うる》んだ目をして、自分の顔を眺める静子に、そういって訊ねたりなどしたが、子供からは、何も聴き取ることが出来なかった。
 来ようの遅いお今を待ちかねて、お増は病人を看護婦にあずけて、朝から籠っていた息だわしい病室を出て来た。
 外はもう大分|更《ふ》けていた。空にはみずみずしい星影が見えて、春の宵らしい空気が、しっとりと顔に当った。
 腕車《くるま》から降りて、からりと格子戸を開けると、しんみりした静かな奥の方から、お今が急いで出て来たが、浅井は火鉢の傍に何事もなさそうに寝そべっていた。晩飯の餉台《ちゃぶだい》がまだそこに出ていた。

     四十五

 入院してから三週間目に、ある暖かい日を選んで、静子が家へつれられて来るまでに、室も一、二度気のおけない病院を見舞った。
 室は日本橋にある出張所の方から、時々取って来る金などで、どうかこうか不足のない月々の生活を支えていた。母親からそこへ宛《あ》てて、内密に送ってよこす着物や手紙の中などに封じ込められた不時の小遣いも、少い額ではなかった。
「ことによったら、僕は東京で一軒|家《うち》を仮りようかとも思っています。」
 室は、病人の枕頭《まくらもと》へ来て、自分と家との関係が、初め心配したほど険悪の状態に陥ってもいないという内輪談《うちわばなし》などするほど、お増に昵《なじ》んで来た。
「でも田舎の方では、とてもお今を貰ってはくれないでしょう。」
 お増は時々訊ねてみた。
「いや、そうでもないですよ。浅井さんという後援者のあることも、知れて来ましたからね。」
「田舎の方の談《はなし》がつきさえすれば、良人《うち》だってうっちゃっておくような人じゃありませんよ。もちろん大したことは出来やしませんけれど、相当なことはす
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