、まだ三十にならないんですからね。」
お増はそこを出たとき、浅井に話しかけた。
四十四
ふとした感冒《かぜ》から、かなり手重い肺炎を惹き起した静子が、同じ区内のある小児科の病院へ入れられてから、お増はほとんど毎日そこに詰めきっていなければならなかった。
会社へ出ていても、静子の病気の始終心にかかっている浅井は、ろくろく仕事も手につかぬほど気分に落着きがなかった。少し緩《ゆる》んで来た寒気が、また後戻《あともど》りをして春らしい軟かみと生気とを齎《もたら》して来た桜の枝が、とげとげしい余寒の風に戦《おのの》くような日が、幾日も続いた。病室のなかには、かけ詰めにかけておく吸入器から噴き出される霧が、白い天井や曇った硝子窓《ガラスまど》に棚引《たなび》いて、毛布や蒲団が、いつもじめじめしていた。
途中で翫具《おもちゃ》などを買って来ることを怠らない浅井は、半日の余も、高い熱のために、うとうとと昏睡《こんすい》状態に陥っている病人の番をしながら、病室に寝たり起きたりしているようなことが多かったが、静子はぜいぜい苦しい呼吸遣《いきづか》いをしながら、顔や髪に、細かい水滴《しずく》の垂れて来るのをうるさがる力もないほど、体が弱っていた。
濛々《もやもや》した濃い水蒸気のなかに、淋しげな電燈のつきはじめるころに、今つけて行った体温表などを眺めていた浅井は、静子に別れを告げて、そっと室を出て行った。
「翌日《あした》父さんがまたいいものを買って来てあげるからね、うるさくとも、湿布はちゃんとしなくちゃいけませんよ。」
浅井は帽子を冠ってから、また子供の顔を覗《のぞ》きながら言った。
「やっぱり自分の子なのかしら。」
いつも思い出す隙もなしに暮して来た疑問が、こんな時のお増の胸に、また考えられて来た。血をわけない子供に、こうした自然の愛情の湧くものかどうかの判断が、子を産んだ経験のない自分には、つきかねるように思えた。
「この子の母親が見たければ、いつでも己が紹介する。」
浅井は東京附近の田舎にいる、その女のことを言い出したが、そんな女と往来《ゆきき》して、静子に里心の出るのが、お増自身にも好ましいこととは思えなかった。
「お今ちゃんを、すぐこっちへよこして下さいよ。」
お増は出て行く浅井に、ドアの外まで顔を出しながら言いかけた。二人は病床の傍で、看護婦
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