んで、一つも纏らないんだ。」
 私もそれには異議はなかつた。
「さうさ。」
「またさういふ奴にかぎつて、自分勝手で……。」
「人が好いんだね。」
 私は微笑ましくなつた。現実離れのしたK―の芸術! しかし、それは矢張り彼の犀利な目が見通す現実であつた。色々な地点からの客観や懐疑はなかつたにしても、人間の弱点や、人生の滑稽さが、裏の裏まで見通された。怜悧な少年の感覚に、こわい小父《おぢ》さんが可笑しく見えるやうな類だと言つて可かつた。
 私は又た過去の懐かしい、彼との友情に関する思出が、眼の前に展開されて来るのを感じた。「高野聖」までの彼の全貌が――幻想のなかに漂つてゐる、一貫した人生観、恋愛観が、レンズに映る草花のやうに浮びだして来た。
 少し話してから、彼は腰をうかした。
「山の神をよこさうかと思つたんだがね、あれは病院へ行つてるんだ。僕もこれから行くところなんだ。」
「これから……又僕も行くが、君も来てくれたまへ。」
「ああ、来るとも。」
 K―はT―とは、似ても似つかない、栗鼠《りす》の敏速さで、出て行つた。
 それから二時弱の時を、私は思ひに耽りつかれてゐた。私は心持ち、持病の気管を悪くしてゐたので、寝ようかとも思つたが、洋服を出してもらはうかとも考へてゐた。担ぎこまれてからT―のことが気にかかつた。
 F―子の声が、あつちの方でしてゐた。そのF―子に言つてゐる芳夫の声もした。
「K―さん、今来てゐたんだよ。」
 芳夫自身は、何か常識的、人情的な、有りふれた芸術が嫌ひであつた。
 すると遽かに、おばさんがやつて来た。
「渡瀬さんからお使ひで、病院から直ぐお出で下さるやうにと、お電話ださうです。」
 私は不吉の予感に怯えながら、急いで暖かい背広に身を固めた。そして念のためにM―子もつれて、円タクを飛ばした。
 しかし私達が、真暗な構内の広場で車を乗りすてて、M―子が漸とのことで捜し当てた、づつと奥の方にある伝染病室の無気味な廊下を通つて、その病室を訪れたときには、T―は既に屍になつてゐた。
 しかし私達は、T―が息を引取つてしまつたとは、何うしても思へないのであつた。何故なら、その時まで――それからづつと後になつて、屍室に死骸が運ばれるまで、彼女は彼の顔や頭を両手でかかへて、生きた人に言ふやうに、愛着の様々の言葉を、ヒステリイの発作のやうに間断なく口にしてゐたからであつた。彼女は広いその額を撫でさすり、一文字なりに結んだ唇に接吻した。時とすると、顔がこわれてしまひはしないかと思はれるほど、両手で弄りまはした。
「T―はほんとうに好い人だつたんですわね。」彼女は私に話しかけた。
「悪い人達に苦しめられどほしで、死んだのね。みんなが悪いんです。好い材料が沢山あつたのに、好いものを書かしてやりたうございましたわ。」
 彼女は聞えよがしに、さう言つて、又彼の顔に顔をこすりつけた。
 私はそつと病室から遁げて、煙草を吸ひに、炊事場へおりて行つた。K―もやつて来た。毛利氏や小山画伯もおりて来た。
「T―君も幸福だよ。」毛利氏は言つた。
「あいつは少年時代に、年上の女に愛されて、そんな事にかけては、腕があつたとみえるね。」K―も煙管《きせる》で一服ふかしながら笑つてゐた。
 私は又、同じあの病室で、脳膜炎で入院してゐた長女が、脊髄から水を取られるときの悲鳴を聞くのが厭さに、その時もこの炊事場で煙草をふかしてゐた、十年前のことが、漫ろに思ひ出されて来た。年々建かはつて行く病院も、此処ばかりは何も彼も昔のままであつた。
「ところで、先刻ちよつと耳にしたんだけれど、先生お土産をおいて行つたらしんだ。」
 私は有るべきことが、有るやうに在るのだと思つた。
「成程ね。」
「よく有ることだがね。」毛利氏も苦笑したが、
「そこで何うするかね、こいつあ能く相談して取決めべきことだけれど、あの細君の身の振方もだが、何よりもサクラさんのことだ。細君は自分で持つていく積りでゐるらしいんだが……。」
 サクラは此の前の細君の子であつた。
 話が後々のことに触れて行つた。

     六
 三日目に、告別式がお寺で行はれた。寺はK―や私に最も思出の深い、横寺町にあつた。
 K―と私とは、むかしこの辺を、朝となく夕となく一緒に歩いたときの気持を取返してゐた。生温るい友情が、或る因縁で繋つてゐて、それから双方の方嚮に、年々開きが出て来たところで、全然相背反してしまつたものが、今度は反動で、ぴつたり一つの点に合致したやうに――それはしかし、考へてみれば、何うにもならないことが、余儀ない外面的の動機に強ひられた妥協的なものだともいへば言へるので、いつ又た何んな機会に、或ひは自然に徐々に、何うなつて行くかは、容易に予想できないといふ不安が、全くない訳ではなかつたけれど、
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