和解
徳田秋聲
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)羞《はづ》かしい
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)薄|闇黒《くらがり》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)最近※[#「やまいだれ+票」、第3水準1−88−55]疽を癒して
−−
一
奥の六畳に、私はM―子と火鉢の間に対坐してゐた。晩飯には少し間があるが、晩飯を済したのでは、夜の部の映画を見るのに時間が遅すぎる――ちやうどさう云つた時刻であつた。陽気が春めいて来てから、私は何となく出癖がついてゐた。日に一度くらゐ洋服を著て靴をはいて街へ出てみないと、何か憂鬱であつた。街へ出て見ても別に変つたことはなかつた。どこの町も人と円タクとネオンサインと、それから食糧品、雑貨、出版物、低俗な音楽の氾濫であつた。その日も私は為たい仕事が目の前に山ほど積つてゐるやうで、その癖何一つ為ることがないやうな気がしてゐた。その時T―が、いつもの、私を信じ切つてゐるやうな少し羞《はづ》かしいやうな様子をして部屋の入口に現はれた。そしてつかつかと傍《そば》へ寄つて来た。
「済みませんけれど、一時お宅のアパアトにおいて戴きたいんですが……。家《うち》が見つかるまで。――家を釘づけにされちやつたんで。」彼はさういつて笑つてゐた。
「何うして?」
「それが実に乱暴なんです。壮士が十人も押掛けて来て、お巡《まは》りさんまで加勢して、否応《いやおう》なしに……。」
私も笑つてるより外なかつたが、困惑した。
「アパアトは一杯だぜ。三階の隅に六畳ばかり畳敷のところはあるけれど、あすこに住ふのは違法なんだから。」
「そこで結構です。小島弁護士も、後で行つて話すから、差当り先生のアパアトへ行くより外ないといふんです。」
「小島君が何うかしてくれさうなもんだね。」
「かうなつては手遅れだといふんです。防禦策は講じてあつたんだけれど、先方の遣口が実に非道いんです。」
「ぢや、まあ……為方がないね。」
T―は部屋代に相当する金をポケツトから出した。私は再三拒んだが、T―は押返した。私は彼が遣りかけてゐる仕事に、最近聊か助言を与へると共に、費用も出来る範囲で立換へてゐた。二三日前にも見本を地方へ送る郵税が、予想より超過したとかで、私はそれを用立てて一安心してゐるところであつた。T―はそんな仕事の好い材料をもつてゐたけれど、少しばかり金を注ぎこんだところで、物になるか何うかは疑問であつた。彼は又私のヒントで、俳文学の雑誌を発刊する計画も立ててゐた。まあ、何か彼か取りついて行けさうに思へた。私自身最近荒れ放題に荒れてゐた少し許りの裏の空地に、百方工面して貧弱なアパアトを造つたくらゐであつた。世間からおいてきぼりを喰つた、芸術家の晩年の寂しい姿を、自身にまざまざ見せつけられてゐた。この四五年事物が少しはつきり見えるやうな気がした。隠遁や死も悪くはなかつたが、ねばるのも亦よかつた。T―ももう相当の年輩であつたが、今まで余り好い事はなかつた。同じ芸術壇で、私の友人である兄は特異な地位を占めてゐたけれど、T―はその足もとへも寄りつけなかつた。結核で八年間も苦しみ通した最初の細君のことを、私は余り知らなかつたけれど、この前の細君は、三年程前、彼に新しい女が出来かかつた頃、子供の問題などで、よく私のところへ遣つて来たものだが、立派な性格破産者であつたから、T―の結婚生活が幸福である筈もなかつた。五年以来彼は今二十五になる恋人と幸福な同棲生活を続けて来た。遣りかけた仕事が若し巧く行けば、彼はその晩年において、生涯の償ひが取れないとも限らなかつた。それは全く望みのない事でもなかつた。誰もが人の才能や運命に見切りをつけてはならなかつた。
私はT―の金をM―子に預けた。そしてT―が帰つてから、背広に着かへてM―子と長男の芳夫をつれて外へ出た。
三人で通りの人通を歩いてゐる、或る銀行の前の、老い朽ちた椎の木蔭の鉄柵のところで、赤靴を磨かせてゐるT―を見た。T―は私達の顔を見て近眼鏡の下で微笑みかけた。
「お出かけ?」
「いや、ちよつと。」
その儘私たちは通りすぎた。そして三丁目の十字路を突切つて、とある楽器店の前まで来た。東京社交舞踏教習所と書きつけた電燈が、その横の路次にある其のビルデイングの入口に出てゐた。M―子が自身私のパアトナアになるつもりで、最近そこで四五日ダンスを教はつたのが因縁で、私も時々そこへ顔を出して、ステツプの研究をやつたりした。教養のある其処の若いマダムは、体の軽い私を、よく腋の下から持ちあげるやうにして、気さくにステツプを教へてくれた。いつか其のお父さんとも私
次へ
全7ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング