クを見るやうな物凄いT―の顔が、緩漫に左右に動いてゐた。
暫くしてから、私達はそこを出て、旧の部屋へ還つた。
「少し手遅れだつたね。」私は言つた。
「さうだな。去年旅行先きで、怪我をして、肋骨を折つたといふ。」
細君が又庭づたひにやつて来た。
「大変苦しさうで、見てゐられませんの。何とか出来ないものでせうか。」
私達は医者の顔色を窺ふより外なかつた。
「さあ、どうも……。」ドクトルも当惑した。
「先刻注射したばかりですからね。他の人が来るまで附いてゐて下さい。大丈夫ですから。」
ドクトルはやがて帰つて来た。
「それぢや、僕はちよつと渡瀬さんとこへ行つて、先生にもちよつと相談してみよう。」毛利氏はさう言つて起ちがけに、ポケツトへ手を突込んで、幾枚かの紙幣を掴みだした。
「百円ありますが、差当りこれだけお預けしておきます。先立つものは金ですから、何うぞ適宜に。」
「ぢや、それ此の人に渡しておかう。」私はそこにゐる細君の方を見た。
「いや、あんた預つて下さい。」
「孰でも同じだが、預つておいても可い。しかし貴方差当り必要だつたら……。」
「え少し戴いておきますわ。」
二十円ばかり細君の手に渡した。
「ぢや、僕は又後に来ます。」
毛利氏はさう言つて出て行つた。
私はづつとの昔し、彼が帝大を出たてくらゐの時代に、電車のなかなどで、口を利いたことがあつたが、渡瀬ドクトルと親密の関係にある毛利氏の人柄に、この頃漸と触れることができた。K―は今は文学以外の、実際自分の仕事にたづさはつてゐる、それらの人達を、幾人となく其の周囲にもつてゐたが、この場合、私をも解つてくれさうな彼の来てくれたことは悉皆私の肩を軽くした。
その間に、私は義弟を走らせて、浦上ドクトルが指定してくれた医者の一人、島薗内科のF―学士を迎ひにやつたが、折あしく学士は不在であつた。
「……それから自宅へ行つてみたんですが、矢張り居ませんでした。」
「そいつあ困つたな。」
「けど、帰られたら、すぐお出で下さるやうに、頼んでおきましたから。」沢は言ふのであつた。
一時間ほどして毛利氏も帰つて来た。しかし待たれる医者は来なかつた。
「どれ、僕行つてこよう。若しかしたら、他の先生を頼んでみよう。」
毛利氏はまた出て行つたが、予備に紹介状をもらつておいた他の一人にも、可憎《あいにく》差閊へがあつた。彼は空しく帰つて来た。
私達は、今幽明の境に彷徨ひつつあるT―に取つて、殆んど危機だと思はれる幾時間かを、何んの施しやうもなく仇に過さなければならなかつた。
「今度の細君はよささうだね。」
「あれはね……僕も初めて見たんだが、感心してゐるんだ。」
「兎角女房運のわるい男だつたが、あれなら何うして……。先生幸福だよ。ところで、何うでせうかね。あの病気は?」
「さあね。」
時間は四時をすぎてゐた。そしてF―医学士の来たのは、それから又大分たつてからであつた。彼は浦上ドクトルと一緒に、三階で診察をすましてから、私の部屋へやつて来た。
「重体ですね。」いきなり医学士は言つた。
「病気は何ですか。」
「私の見たところでは、何うも敗血病らしいですね。」
「窒扶斯ぢやありませんね。」私はその事が気にかかつた。
「さうぢやありませんね。」
「それで何うなんでせう、病院へ担ぎこんだ方が、無論いいんでせうが、迚も助からないやうなら、あすこで出来るだけ手当をしたいとも思ふんですけれど。」
「さうですね。実は寝台車に載せて連れて行くにしても、途中が何うかとおもはれる位で……。しかし近いですから、手当をしておいたら可いかも知れません。」
「これは細君の気持に委さう。」毛利氏が言ふので、私達は彼女を見た。
「病院で出来るだけの手当をして頂きたいんですけれど……。」
やがて毛利氏が寝台車を※[#「にんべん+就」、第3水準1−14−40]ひに行つた。
五
その夜の十時頃、私はM―子と書斎にゐた。M―子は読みかけた「緋文字」に読み耽つてゐたし、私は感動の既に静つた和やかさで、煙草を喫かしてゐた。
それはちやうど三時間ほど前、T―の寝台車が三階から担ぎおろされて行つてから、暫らくたつて、私は私の貧しい部屋に、K―の来訪を受けたからであつた。
「今度はどうもT―の奴が思ひかけないことで、御厄介かけて……。」
「いや別に……。行きがかりで……。」
「何かい、君んとこにアパアトがあるのかい。僕はまた君の家かと思つて。」
「さうなんだよ。T―君家がなくなつたもんだから。」
K―はせかせかと気忙しさうに、
「彼奴もどうも、何か空想じみたことばかり考へてゐて、足元のわからない男なんだ。何でもいいから、こつこつ稼いで……たとひ夜店の古本屋でも、自分で遣るといふ気になるといいんだが、大きい事ばかり目論
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