からであつた。彼女は広いその額を撫でさすり、一文字なりに結んだ唇に接吻した。時とすると、顔がこわれてしまひはしないかと思はれるほど、両手で弄りまはした。
「T―はほんとうに好い人だつたんですわね。」彼女は私に話しかけた。
「悪い人達に苦しめられどほしで、死んだのね。みんなが悪いんです。好い材料が沢山あつたのに、好いものを書かしてやりたうございましたわ。」
彼女は聞えよがしに、さう言つて、又彼の顔に顔をこすりつけた。
私はそつと病室から遁げて、煙草を吸ひに、炊事場へおりて行つた。K―もやつて来た。毛利氏や小山画伯もおりて来た。
「T―君も幸福だよ。」毛利氏は言つた。
「あいつは少年時代に、年上の女に愛されて、そんな事にかけては、腕があつたとみえるね。」K―も煙管《きせる》で一服ふかしながら笑つてゐた。
私は又、同じあの病室で、脳膜炎で入院してゐた長女が、脊髄から水を取られるときの悲鳴を聞くのが厭さに、その時もこの炊事場で煙草をふかしてゐた、十年前のことが、漫ろに思ひ出されて来た。年々建かはつて行く病院も、此処ばかりは何も彼も昔のままであつた。
「ところで、先刻ちよつと耳にしたんだけれど、先生お土産をおいて行つたらしんだ。」
私は有るべきことが、有るやうに在るのだと思つた。
「成程ね。」
「よく有ることだがね。」毛利氏も苦笑したが、
「そこで何うするかね、こいつあ能く相談して取決めべきことだけれど、あの細君の身の振方もだが、何よりもサクラさんのことだ。細君は自分で持つていく積りでゐるらしいんだが……。」
サクラは此の前の細君の子であつた。
話が後々のことに触れて行つた。
六
三日目に、告別式がお寺で行はれた。寺はK―や私に最も思出の深い、横寺町にあつた。
K―と私とは、むかしこの辺を、朝となく夕となく一緒に歩いたときの気持を取返してゐた。生温るい友情が、或る因縁で繋つてゐて、それから双方の方嚮に、年々開きが出て来たところで、全然相背反してしまつたものが、今度は反動で、ぴつたり一つの点に合致したやうに――それはしかし、考へてみれば、何うにもならないことが、余儀ない外面的の動機に強ひられた妥協的なものだともいへば言へるので、いつ又た何んな機会に、或ひは自然に徐々に、何うなつて行くかは、容易に予想できないといふ不安が、全くない訳ではなかつたけれど、
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