ておくと、何か書く場合に、それを取入れて、いくらかヴヰヴヰッドに描けるといふ程度である。
するうち私はひどい熱病にかかつて、山の方にある病院へ診てもらひに行つた。多少は快くなつた筈の胃のアトニイは相変らずで、食べものが不自由なので、後戻りした形だつたが、気管支もひどく悪くなつてゐた。私の肺気腫は淵源が頗る遠いので、曽て博文館時代にも、熱病を放抛つておいて、到頭ひどいことになつたのだが、別府でもそれに罹つた訳である。それに二月も東京を離れて、遊惰な日を送つてゐたので、何となく不安と焦燥を感じて来た。ちやうど佐々醒雪氏(後に博士)から手紙が来て、金港堂で、文芸界(?)が創刊され、初号の巻頭に小杉天外氏が書くことになつてゐて、二号の分を私に書くやうにと言つて来たのが、大阪から附箋になつて廻つて来た。遊惰は遊惰でも、私はさうして温泉に浸つてゐるあひだも、いつも暗い気持で、果して小説を作る才能が自分にあるか否かが疑はれ、前途に不安を感じてはゐたので、佐々氏の手紙に接すると、遽に文壇のことが気にかかり出して、何か緊張した気持になるのであつた。それに京都の日の出新聞にゐる中山白峰氏からも手紙が来て
前へ
次へ
全11ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング