いのであつた。彼は浮《うわ》の空《そら》で話のばつだけを合してゐた。それは板塀《いたべい》一つ隔てた、津島の書斎から言へば、前の方にあたる一つの家の台所で、ちやうど其の時やつて来た大工に何か指図をしてゐる妻のさく子の声が、妙に彼の神経を刺戟《しげき》したのであつた。
 津島はその頃、やつとその家を明けてもらふことが出来て、いくらか助かつたやうな気がしてゐた。彼は年々自分の住居《すまひ》の狭苦しいのを感じてゐた。勿論十人の家族に、畳敷でいへばわづか二十畳か二十四五畳の手狭な家なので、何うにも遣繰《やりくり》のつかないことは、女達に言はれなくとも、今まで住居などには全く何の注意をも払はなかつた、又た払ふ余裕もなかつた津島自身が痛感してゐるのであつた。この二三年、子供達がめき/\生長するにつれて、その問題は一層切迫して来た。
 津島はその頃長らく住んでゐた自宅と、土地の都合でそれに附属してゐる、今一つの家とを、思ひがけなく自分のものにすることができた。彼はさうする前に、自分の家が新らしい家主に渡りかけたところで、明け渡しを迫られたが、借家の払底なをりだつたので、家が容易に見つからなかつた。彼
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