れた。
「何だつてあんな大きな声を出すんだ。」
 暫らくしてから、さく子が此方の家へ来て、茶の間の縁先きで、そこに干してあつた足袋の位置をかへてゐると、津島が座敷の縁へ出て詰《なじ》つた。
 さく子はちよつと驚いたやうな顔を、こつちへ向けた。二人は昨日から口を利かないのであつた。
「何です。」
「あんな調子づいた声を出して、どんな湯殿を作るつもりなんだ。」
「別に大きな声なんか出しやしませんよ。」
「こゝまで筒ぬけに聞えるぢやないか。隣りぢや何《ど》んな普請をするかと思つたに違ひないんだ。」
「可いぢやありませんか。別に悪いことをするんぢやないんですもの。」さく子はさう言つて部屋へ入りかけて、
「あゝ煩《うる》さい。」と眉《まゆ》に小皺《こじわ》を寄せた。
 津島とさく子が不快を感じ合つてゐたといふのも、今までも善くあつた彼女の弟のことからであつた。その弟が津島に対して金銭上で、ちよつと狡《ずる》いことをやつた。預けたものを質へ入れて、放下《ほつたらか》しておいたのが、津島の気を悪くした。その不正なことを、さく子も腹を立ててゐたけれど、其れ以外にも少し金銭上の取引きがあつてそんな事には頭脳《あたま》の働きの鈍い津島に、さく子はいくらか弟の非を蔽《おほ》ふやうな説明を加へたのであつた。津島はその弟に可なりな補助を与へたこともあつたけれど、利き目のないのに懲《こ》りて、さうした交渉は作らないことに決めてゐたのであつたが、ふいと虚につけ込んで小股をすくはれたのが、腹立しかつた。さく子も弟の悪いことは十分知つてゐた。大袈裟《おほげさ》に津島の恩を弟に着せたりすると、それが津島には擽《くすぐ》つたくもあつた。しかしその時は幾らか体裁を作るためにか、それとも気づかずにか、とにかく曖昧《あいまい》にしようとした。が、其よりも差当つて質に入れられたものを、津島は取返さうとした。そして終ひに自分で金を払つて、漸《やうや》く取り返すことができた。その金は僅《わづ》かだつたけれど、人を舐《な》めたやうな彼の態度が憎《にく》かつた。彼はさく子にも当らずにはゐられなかつた。そんな場合に、子供に甘いさく子たちの母親が、誠意をかいてゐることも津島を不快にした。
 津島はさく子に移されて行つた不快が、まだ滓《かす》のやうに腹に残つてゐたので、さうしたさく子の調子が、忽《たちま》ち逆上性の神経を苛立
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