町の踊り場
徳田秋声
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)体《からだ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)相当|憂欝《いううつ》な
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》る
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぼちや/\
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夏のことなので、何か涼しい着物を用意すればよかつたのだが、私は紋附が嫌ひなので、葬礼などには大抵洋服で出かけることにしてゐた。紋附は何か槍だの弓だの、それから封建時代の祖先を思はせる。それに、和服は何かべらべらしてゐて、体《からだ》にしつくり来ないし、気持までがルウズになるうへに、ひどく手数のかゝる服装でもある。
それなら洋服が整つてゐるかといふと、さうも行かなかつた。古い型のモオニングの上衣《うはぎ》は兎に角、ズボンがひどく窮屈であつた。そこで私はカシミヤの上衣に、春頃新調の冬ズボンをはいて、モオニングの上衣だけを、着換への和服と一緒に古いスウトケースに詰めた。私は田舎の姉が危篤だといふ電報を受取つて、息のあるうちに言葉を交したいと思つたのである。さういふことでもなければ、帰る機縁の殆《ほと》んどなくなつた私の故郷であつた。
駅へついてみて、私は長野か小諸《こもろ》か、どこかあの辺を通過してゐる夜中《よなか》に、姉は彼女の七十年の生涯《しやうがい》に終りを告げたことを知つた。多分私はその頃――それは上野駅で彼女と子供に見送られた時から目についてゐたのだが、或る雑種《あひのこ》じみた脊の高い紳士と、今一人は肉のぼちや/\した、脊の低い、これも後向《うしろむ》きで顔を見なかつたから日本人か何うかも分明でない、しかし少くとも白人ではなかつた紳士と、絶えず滑らかな英語で、間断なく饒舌《しやべ》りつゞけてゐたのだが、軽井沢でおりてから、四辺《あたり》の遽《には》かに静かになつた客車のなかで、姉のまだ若い時分――私がその肌に負《おぶ》さつてゐた頃から、町で評判であつた美しい花嫁時代、それからだん/\生活に直面して来て、長いあひだ彼此《かれこれ》三十年ものあひだ、……遠い国の礦山に用度掛りとして働いてゐた夫の留守をして、さゝやかな葉茶屋の店を支へながら、幾人もの子供達を育てて来て、その夫との最近の十年ばかりの同棲《どうせい》生活が、去年夫との死別によつて、終りを告げる迄の、人間苦の生活を、風にけし飛んだ雲のやうに思ひ浮べてゐた。最近一つの絆《きづな》となつてしまつた彼女の将来を何うしようかといふことが、その間も気にかゝつてゐたには違ひなかつた。
その日は閑散であつた。私は薄い筒袖《つゝそで》の単衣《ひとへ》もので、姉の死体の横はつてゐる仏間で、私のちよつと上の兄と、久しぶりで顔を合せたり、姉が懇意にしてゐた尼さんの若いお弟子さんや、光瑞師や、まだ大学にゐる現在の若い法主《ほつす》のことをよく知つてゐる、話の面白いお坊さんのお経を聴いたりしてゐるうちに、夕風がそよいで来た。弔問客《てうもんきやく》は引つきりなしにやつて来た。花や水菓子が、狭い部屋の縁側にいつぱいになつた。
私は足が痛くなつて来たが、空腹も感じてきた。しかしこゝでは信心が堅いので、晩飯には腥《なまぐさ》いものを、口にする訳《わけ》にいかなかつた。
「何とかしませう。」甥《をひ》は言つたけれど、当惑の色は隠せなかつた。
「今年はまだ鮎《あゆ》をたべない。鮎を食べさせるところはないだらうか。」私は二階で外出着に着かへながらきいた。
「それならいくらもあります。何処でも食べさせます。」
手頃な料理屋を、甥は指定してくれた。私は草履をつつかけると、ステッキを一本借りて、信心気の深い人達の集つてゐる、線香くさい家を飛び出した。どつちを向いても、余り幸福ではない、下の姉や、仏の娘を初めとして、寄つてくる多勢の血縁の人達の生活に触れるのも、私に取つては相当|憂欝《いううつ》なことであつた。
私は故郷における生活の大部分を、K―市のこの領域――といつても相当広いが――に過したので、若いその頃の姿をこの背景のなかに見出しつゝ、だん/\賑やかな処へ出て行つた。既に晩年に押詰められた私達のこの年齢では、故郷は相当懐しいものであつていゝ筈だが、私の現在の生活環境が余りに複雑なためか、或ひは私の過去の生活が影の薄いものであつたためか、他の田舎の町を素通《すどほ》りするのと、気持は大差はなかつた。
本通りから左の或る横町の薄暗い静かな街へ入ると、直《ぢき》にその屋号の出た電燈が見つかつたので、私は打水《うちみづ》をした石畳《いしだたみ》を踏んで、燈籠《とうろう》と反対の側にある玄関先きへかゝつた。直ぐ瀟洒《せうしや》な露路庭を控へた部屋に案内された。良家の若い奥様といつた風の、おとなしやかな女が、お香の匂つた煙草盆や絞《しぼ》りなどを運んで来た。
「風呂はあるね。」
「ございます。お入《はひ》りになるのでしたら、今ちよつと見させますから。」
何か無風帯へでも入つて来たやうな暢《のん》びりした故郷の気分が私の性《しやう》に合はないのか、私は故郷へ来ると、いつでも神経が苛《いら》つくやうな感じだが、今もいくらかその気味だつた。十八九時分に、学窓にもぢつとしてゐられず、何か追立《おひた》てられるやうな気持で、いきなり故郷を飛出した頃の自分と同じであつた。
「鮎を食べに来たんだが、あるだらうね。」
「あります。」
私は庭石を伝つて、潜戸《くゞりど》をくゞつて、薄暗い地階のやうなところを通つて、風呂場へ行つた。総《すべ》てこの町の、かうした家では、何か薄暗い土倉《つちぐら》のやうな土間があつて、それが相当だゝつ広い領分を占めてゐるので、夏は涼しい。
上つてくると、女中がやつて来た。
「鮎は何にしませうか。」
「言ふのを忘れたが魚田《ぎよでん》が食べたいんだ。」
女中は引返していつたが、直ぐ再びやつて来て、鮎は大きいのが切れてゐて、魚田にならないと言ふのであつた。
「あゝ、さう。」私は困つた。魚田以外のものは食べたくなかつた。
「しかしそんなに大きくなくたつて……どのくらゐなの。」
「さあ……ちよつと聞いてまゐります。」
すると女中は少し経《た》つてから、部屋の入口に来て、
「鮎はございませんさうですが……。」
「小さいのも。」
「は。」
「だから先刻《さつき》きいたんだ。それぢや仕様がないな。」
料理が二品私の前におかれた。
でつぷりした、人品の悪くないお神が部屋へ入つて来て、
「鮎があると申し上げたの。」
「さうなんだ。」女中に代つて、私が答へた。
「私は鮎を食べさしてもらふつもりで、上つたんだし、それ以外のものも、かういふものは食べられないんで。こつちで註文できないとすると……。」
少し極《きま》りが悪い思ひを忍んで、私はお神と女中に送られて、そこを出た。あれだけの構へで、今時分鮎がないのも可笑《をか》しかつたが、女中の返辞がだん/\違つて来たのも不思議であつた。
私は通りへ出て、そこから一町ほど先きにある、今死んだ姉の末の娘の片づいてゐる骨董屋《こつとうや》へ飛込んだ。骨董屋といつても、店先きには格子がはまつてゐた。清らかに片づいたその店には、何一つおいてなかつた。私は八十を幾年《いくつ》か越した筈の、お婆さんに断《ことわ》つて茶の間の前にある電話にかゝつた。そして甥《をひ》を呼出した。
「それあ多分生きた鮎がなかつたんでせう。あすこでは、死んだ鮎はつかひませんから。」
私は甥に教はつて、近くにある別の料理屋で辛《から》うじて食慾だけは充たすことができたが、無論生きた鮎ではなかつた。
翌日の午前、納棺式が始まる頃には、私は睡眠不足と、怠屈と、お経と、想像以上の暑さとにうだつてしまつてゐた。今一人の妹とか、幾人かの姪《めひ》や甥《をひ》、又|従姉妹《いとこ》たち――その他の人達とも話を交《まじ》へたりして、各人のその後の運命や生活内容にも、久しぶりで触れることができた。こんなことでもないと、一々訪ねることもできないやうな人達であつた。その中には、産れたばかりの赤ん坊に乳房を含ませてゐる姪の娘もあつたが、私より年上の姪もあつた。兎《と》に角《かく》彼等は――私と私の子供達をも含めて、みんな私の父から発生した種族であつた。多少幸不幸の差はあるにしても、一様にどこかへ紛れこんで生きて来、生きつゝある訳であつた。私自身お上品ぶつた芸術家の矜《ほこ》りなんかは、疾《とつ》くにどこかへ吹飛んで、一人の人間として、何か大衆のなかに働いてゐる人の安らかさを思ふやうになつてゐた。都会的の刺戟《しげき》でもなかつたら、生きることに疲れきつた私は、疾《とつ》くにへたばつてゐたに違ひなかつた。
土蔵の屋根の上の棚に這《は》はしてある葡萄《ぶだう》の葉蔭から来るそよ風に吹かれながら、二階座敷に寝ころんでゐた私は、眠れもしないので、また下へおりて行つた。
人が多勢仏間に立つてゐた。
「湯棺だ。」
私も人々の後ろへ寄つてみた。嫂《あによめ》や姉や、死んだ妹の二人の娘や、姪たちは、手にハンケチをもつて、涙をふいてゐた。
「なむあみだ、なむあみだ……。」
歔欷《すゝりな》くやうな合唱が、人々の口から口に呟《つぶや》かれた。
湯棺がをはると、今度は剃髪《ていはつ》が始まつた。法被《はつぴ》を着た葬儀屋の男が、剃刀《かみそり》を手にして、頭の髪をそりはじめた。髪は危篤に陥《おちい》る前に兄の命令で短く刈られてあつた。
「お祖父《ぢゝ》そつくりやぞな。」
「さうや。」
三十年も四十年も前に、写真一つ残さずに死んだ、私の父の顔を覚えてゐると見えて、姪達がさゝやき合つた。私は又十年前に死んだ、同型の長兄の死顔を思ひだしてゐた。私は私の母とは又違つた母の何ものかを受継いでゐるらしい、長兄とこの姉との骨格を考へたのである。その母は私の母よりか多分美しい容貌《ようばう》の持主であつたに違ひない。父による遺伝に、この姉と長兄次兄と、私と私の同母姉妹とに、少しは共通なものがあるかも知れなかつた。
葬儀社の男衆は前の方を剃《そ》りをはると、今度は首を引つくら返して、左の鬢《びん》をあたりはじめた。それから右と後ろ――かなり困難なその仕事は、なか/\手間取つた。鳥の綿毛をでも※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》るやうに、丹念に剃られた。綿の詰つた口、薬物の反応らしい下縁の薄紫色に斑点つけられた目、ちやうどそれは土の人形か、胡粉《ごふん》を塗つた木彫の仏像としか思はれない首が、持ちかへる度に、がくり――とぐらついた。私は抱かれたり、負《おぶ》さつたりした私の幼時の姉、又は皆んなでカルタ遊びをした私の少年時代の姉、それからずつと大きくなつて、既に戯曲や小説に読み耽るやうになつた頃、誘ひ合せて浄瑠璃《じやうるり》など聞きに行つた頃、何かした拍子に、ふと鼻についた姉の肌の匂ひなどを仄《ほの》かに思ひだしてゐた。雪国の女らしい白い肌をした姉は少し甘い腋香《わきが》をもつてゐた。
私はまたそのハイカラであつた、姉の夫の時々の印象をも聯想してゐた。去年の冬亡くなつた彼は、合ひの子のやうな顔をしてゐた。医学生であつたと云ふ彼は、その頃商人であつた。私は彼から英語の綴りを教はつた。結婚してから間もなく、泊りに行つた私に、彼は生理学の書物をもつて来て見せたこともあつた。彼は小学生である私に不似合ひな、その中の一節を指示した。それは何んの理由もなく、日に/\体の痩せ衰へて行く少年のことを書いたものであつた。勿論飜訳書だから西洋の出来事であつた。その家の女中が、夜ごと少年の寝室のドアのなかへ忍び込むといふ事実が発見されたといふのであつた。蒼白《あをじろ》い少年であつた私は、彼からその一節を読みきかされて、遽《には》かに小さい心臓の痛みを感
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