じた。私はその頃、周囲に女の子の遊び友達しかもつてゐなかつた。私はその書物のなかのその話を耳にいれたとき、私もまた何かさういふ罪を犯したことがあるやうな気がしてならなかつた。病身がちな私は、屡々《しば/\》真蒼《まつさを》になつて、母に抱きついた。兎角私は死の恐怖に怯《おび》えがちであつた。
「もうそのくらゐで可《よ》からう。」
兄がふつと言つたので、私は気がついてみると、姉のこちこちした頭髪《かみ》は綺麗に丸坊主にされてしまつた。ぼんの窪《くぼ》のところが、少し黝《くろ》い陰をもつてゐるだけであつた。
死骸を棺にをさめる時、部屋の雰囲気《ふんゐき》が又一層切実になつて来た。歔欷《すゝりなき》の声が起つた。
「なむあみだ、なむあみだ……。」
そしてそれが済むと、人々はそこを離れて、次ぎの部屋へ入つたり、二階へ上つたり、お茶を呑んだり、煙草をふかしたりして、他《ほか》の話をしはじめた。
柩《ひつぎ》が外へ運び出されて、これも金ぴかの柩車《きうしや》に移されたのは、少し片蔭ができた時刻であつた。私は兄と他の人達と、後ろの方の車に乗つた。
やがて町ばなへ出た。そして暫くすると、そこに丘や林や流れや小径《こみち》や、そんな風景が展開した。
私が驚いたことは、自動車の一隊が火葬場の入口へ入つたとき、何か得体の知れない音楽が、遽《には》かに起つたことであつた。雅楽にしては陽気で、洋楽にしては怠屈なやうなものであつた。兎に角|笙《しやう》、※[#「感」の「心」に代えて「角」、第4水準2−88−47]篥《ひちりき》の音であることは確かであつた。私はその音楽の来る方へ行つてみた。それは柩車のなかでかけられた宮内省のサインのあるレコオドであつた。
三時間ほどすると、重油でやかれた姉はぼろ/\の骨となつて、窯《かま》から押出された。
その夕方、私は大阪から来てゐる嫂《あによめ》と一緒に、兄の家の広い客間で、晩餐《ばんさん》のもてなしを受けた。
私は幾度も入りつけてゐる風呂場で汗を流すと、湯上り姿で、二間の床を背にして食卓の前に寛《くつろ》いだ。兄の家の養嗣子《やうしし》もそこで盃《さかづき》をあげた。
この部屋も度々来て坐つたし、年々|苔《こけ》のついてくる庭の一木一石、飛石の蔭の草にも、懐《なつ》かしい記憶があつたが、最近養嗣子がこの土地の聯隊へ転任して来て、その夫人と三人の子供達と一緒に同棲《どうせい》することになつて、兄夫婦は総てのものを彼等に譲り渡してしまつたので、何か以前ほどの親しみを感じては悪いやうな気がした。
兄は長いあひだ委《まか》されてゐた礦山をおりて、こゝで静かに老後を過してゐた。勉学に耽《ふけ》りすぎて、肋膜《ろくまく》をわづらつた上の孫は、もう十九であつた。中佐である養嗣子《やうしし》の顎鬚《あごひげ》には、少し白い毛が交つてゐた。久しく逢《あ》はなかつた嫁さんは、身装《みなり》もかまはずに、肥つた体を忙しく動かして、好きマダム振りを発揮してゐた。
数年前に重患にかゝつた兄は、健康は健康だつたが、足が余り確かでなかつた。嫂も※[#「兀+王」、第3水準1−14−62]弱《ひよわ》い方であつたが、最近内臓に何か厄介な病《やまひ》が巣喰つて来た。切開が唯一の治療方法であつたが、年を取つてゐるので、薬物療法をとることにしてゐた。
兎に角前年私か来たときから見ると、家庭がひどく賑《にぎ》やかで、複雑になつてゐた。もう老人達だけの家庭ではなくなつてゐた。家とか財産とかがある場合に、人はやつぱりそれの譲受主を決めておかなければならないのであつた。そしてそれを譲りうける人は、早く家庭に閉籠《とぢこも》るべき気分を、醸生されてゐた。軍人とはいへ、養嗣子の分担は何か事務的な仕事らしく思へた。
兄の方は別に精進《しやうじん》料理なので、この晩餐の団欒《まどゐ》には加はらなかつた。嬉しさうに、時々顔を出した。今度私が来た目的の半ばは、一層寂しくなつたこの兄を見舞ふことにもあつた。私は兄に万一のことがあつたら、早速駈けつけるとの嫂の希望に予約をしたが、それが誰の身のうへになるかは、誰にも判らなかつた。孰《いづ》れにしても、私達四人――大阪の嫂をも入れて――がその間近まで歩み寄つてゐることは確実であつた。でも兄は私より一まはり上であつた。
食事がすむと、私達は茶の間へ引退《ひきさが》つて、お茶を呑みながら、閑散な話を交へた。私は姉の法事に強《た》つて招かれてゐたので、さうすると間《あひだ》二日をこゝに過さなければならなかつた。
「温泉へでも行かうか。」
私はそんなことを考へてみたが、昨日家を立ちがけに、余儀ない人から金を借りられたので、私の懐ろはそれだけ不足してゐた。でなくとも、温泉情緒などは、私の環境からは既にこの上なく怠屈で無意味であつた。
目の前の餉台《ちやぶだい》にあるお茶道具のことから、話が骨董《こつとう》にふれた。ちやうどさういふ趣味をもつてゐる養嗣子が、先刻《さつき》から裂《きれ》で拭いてゐた鍔《つば》を見せた。私が見ても、彫刻の面白い、さうざらに見つからない品であつた。鉄の地肌も滑《なめ》らかで緻密《ちみつ》であつた。
「これあ実際掘り出しものですぜ。」養嗣子はせつせと裂で拭いては、翫味《ぐわんみ》してゐた。
「いくらで買つて来たのかい。」兄は微笑してゐた。
「お父さんはいくらだとお思ひになります。」
「さあな。」
養嗣子は又隣県にゐたとき、兵士の家から安く譲りうけた大小そろつた刀を倉から取出して来て、袋の紐《ひも》を釈《と》いた。作りは凝《こ》つたものであつた。私はその大きい方を手に取つて、鞘《さや》を払つてみた。好い刀を見ることは、私も嫌ひではなかつた。しかしその刀が、何《ど》の程度のものかは、わからなかつた。
この部屋の壁にかゝつてゐるのは、彼が赴任してゐた台湾|土産《みやげ》の彫刻物であつた。そこに台湾の名木で造られた茶箪笥《ちやだんす》があつた。気がついてみると、餉台《ちやぶだい》も同じ材の一枚板であつた。
私は又養嗣子夫婦の住居《すまひ》になつてゐる二階へあがつて行つた。総てこの家は、前に来たよりも、手広くなつてゐて、兄達老夫婦の階下の二間《ふたま》も、すつかり明るく取拡げられてゐた。
二階の一室には台湾で造つた見事な大きな箪笥が、二つ並んでゐた。そこにも内地では見られない装飾品が幾個《いくつ》かあつた。
「手狭なものですから、不用なものはみんな倉へ投げこんでおきます。」
私は私の軍人といふものに対する幼稚な概念からは、凡《およ》そ縁の遠い彼の生活気分を、不思議に思つた。いつか波のうへにゐるやうな、私の都会生活のあわたゞしさとは、似ても似つかないやうなものであつた。
彼が軍職を罷《や》めるといふことも、大分前から耳にしてゐたが、今は少し忙しさうであつた。
やがて下へ下りて来た。
「戦争はありますか。」
私はきいて見た。
「ありませんとも。」彼は寧《むし》ろ私の問ひを訝《いぶか》るやうに答ヘた。
私は踊り場のことを考へてゐた。昨夜料理屋の女中にきいて、この町にも一箇所踊れるところがあることを知つてゐた。
私は何かしら行動が取りたくなつて来た。
踊り場のある町までは、少し距離があつたけれど、乗りものを借りるほどのことはなかつた。
私は「ちよつと歩いて来ます。」といつて、例の冬ズボンにカシミヤの上衣を着て外へ出ると、通りつけの道を急いだ。どこも彼処《かしこ》も夢のやうに静かで、そして仄暗《ほのぐら》かつた。
その町はこの市の本通り筋の裏にあつた。そこで小説家のK―が育つた。私はどこにも踊り場らしいものの影を見ることが出来ずに、相当に長いその通りを、往つたり来たりした。私はその踊り場が、この市の唯一のダダイストである塑像家《そざうか》M―氏の経営(さう大袈裟《おほげさ》なものではないだらうが)に係るものだことを、昨日坊さんから聞いてゐたので、その点でもいくらか興味があつた。
到頭《たうとう》私はソシアル・ダンスと紅《あか》い文字で出てゐる、横に長い電燈を見つけることが出来た。往来に面した磨硝子《すりガラス》に踊つてゐる人影が仄《ほの》かに差して、ヂャヅの音が、町の静謐《せいひつ》を掻乱《かきみだ》してゐた。
意気な格子戸のある入口がその先きにあつた。格子戸は二色の色硝子で縞《しま》になつてゐた。入ると、土間の直ぐ右側にカアテンが垂れてゐて、その傍に受付があり、左側の壁に規則書の掲示があつた。
ホールはM―氏のアトリエで、全部タタキで、十坪ばかりの広さをもつてゐた。
私は早速チケットを買つた。東京の教習所から見ると、誰とでも踊れるだけ自由がきいた。私はダンサアらしい三人ばかりの娘達と、四十がらみの洋装と、それより少し若い和装の淑女と長椅子にかけてゐる反対の側の椅子にかけて、二組出てゐる踊りを見てゐたが、ステップはみな正しいもので、踊り方も本格であつた。
黄金色をした大きな外国の軍人の塑像が、アトリエの隅の方に聳《そび》え立つてゐるのが目につくきりで、テイプやシェードの装飾はしてなかつた。
私は靴底のざら/\するタタキを気にしながら、二回ばかりトロットを踊つてみたが、その娘さんは略《ほゞ》二流どころのダンサアくらゐには附合つてくれた。
草履ばきで、踊りなれのした足取りで踊つてゐる、髪の長い中年の男が、マスタアのM―氏だと思はれたので、私は近づいて名刺を出した。
「しばらく御滞在ですか。」
「いや、明後日の夜行で帰るつもりです。こゝには誰も話相手がゐないので……。」
私は今踊つた人がM―氏の令嬢で、もう一人の美しい人が姪《めひ》で、今一人の娘さんが友達だことを知つた。
「私は兎に角正しい踊りを教へるつもりで、遣《や》つてゐますが、この町にも社交ダンスは拡《ひろ》まるだらうと思ひます。」
「床が板でないので、少し憂欝《いううつ》ですね。」
「さうしようかと思つたんですけれど……。」
「どんな人が踊りに来ますか。」
「いろ/\です。あすこにゐるのはお医者さまと、弁護士です。」
汗がひいたところで、私はまたざら/\するフラワへ踊り出したが、足の触感が不愉快なので、踊つたやうな気持にはなれなかつた。
私は椅子にかけて、煙草をふかした。
すると先刻《さつき》から踊りを見物してゐた、洋装の婦人が、いきなり席を離れて、つか/\私の方へ寄つて来た。
「あなたはT―先生でいらつしやいましたね。」
さう言葉をかけられたので、私は彼女が誰だかを思ひ出さうとして、その顔を見あげた。
「さうです、貴方《あなた》は誰方《どなた》でしたつけ。」
「私山岡ですの。つい先生のお近くの……。」
私はまだ思ひ出せなかつたが、巴黎院《パリーゐん》といふ、一頃通りで非常に盛《さか》つた理髪店のマダムの面影が、何《ど》うやら漸《やつ》とのことで思ひ出せた。マスタアは洋行帰りのモダンな紳士であつた。しかしそれだか何《ど》うだか、分明《はつきり》したことはわからなかつた。
「こちらへ何《ど》うして来てゐるんですか。」私は当らず触らずに聞いた。
「こちらの三越の婦人部にをりますの。お序《ついで》があつたら、お寄り下さいまし。」
「は、ことによつたら……。お踊りにならないんですか。」
「えゝ、ちよつと拝見に。」
婦人は元の席へ戻つたかと思ふと、間もなく連れの婦人と一緒に、アトリエを出て行つた。
私は政治に興味を寄せたりして、終ひに店を人に譲つて、郊外へ引越して行つた巴黎院《パリーゐん》のマスタアのことを考へてゐた。マダムが、職業婦人として、こんなところへ来るやうでは、あの夫婦も余り幸福ではなささうであつた。それに私の嗅覚によると、あのマダムは私の隣国の産れに違ひないのであつた。
汚い黒の洋服を着た、若い男が一人、入替りに入つて来て、私の傍に腰をかけた。
「こゝは何ういふ風《ふう》にすればいゝですか。」
「いや、やつぱりクウポン制度です。」
「あのお嬢さんたちに申込んでも構はんです
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