ダムの面影が、何《ど》うやら漸《やつ》とのことで思ひ出せた。マスタアは洋行帰りのモダンな紳士であつた。しかしそれだか何《ど》うだか、分明《はつきり》したことはわからなかつた。
「こちらへ何《ど》うして来てゐるんですか。」私は当らず触らずに聞いた。
「こちらの三越の婦人部にをりますの。お序《ついで》があつたら、お寄り下さいまし。」
「は、ことによつたら……。お踊りにならないんですか。」
「えゝ、ちよつと拝見に。」
 婦人は元の席へ戻つたかと思ふと、間もなく連れの婦人と一緒に、アトリエを出て行つた。
 私は政治に興味を寄せたりして、終ひに店を人に譲つて、郊外へ引越して行つた巴黎院《パリーゐん》のマスタアのことを考へてゐた。マダムが、職業婦人として、こんなところへ来るやうでは、あの夫婦も余り幸福ではなささうであつた。それに私の嗅覚によると、あのマダムは私の隣国の産れに違ひないのであつた。
 汚い黒の洋服を着た、若い男が一人、入替りに入つて来て、私の傍に腰をかけた。
「こゝは何ういふ風《ふう》にすればいゝですか。」
「いや、やつぱりクウポン制度です。」
「あのお嬢さんたちに申込んでも構はんです
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