。髪は危篤に陥《おちい》る前に兄の命令で短く刈られてあつた。
「お祖父《ぢゝ》そつくりやぞな。」
「さうや。」
三十年も四十年も前に、写真一つ残さずに死んだ、私の父の顔を覚えてゐると見えて、姪達がさゝやき合つた。私は又十年前に死んだ、同型の長兄の死顔を思ひだしてゐた。私は私の母とは又違つた母の何ものかを受継いでゐるらしい、長兄とこの姉との骨格を考へたのである。その母は私の母よりか多分美しい容貌《ようばう》の持主であつたに違ひない。父による遺伝に、この姉と長兄次兄と、私と私の同母姉妹とに、少しは共通なものがあるかも知れなかつた。
葬儀社の男衆は前の方を剃《そ》りをはると、今度は首を引つくら返して、左の鬢《びん》をあたりはじめた。それから右と後ろ――かなり困難なその仕事は、なか/\手間取つた。鳥の綿毛をでも※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》るやうに、丹念に剃られた。綿の詰つた口、薬物の反応らしい下縁の薄紫色に斑点つけられた目、ちやうどそれは土の人形か、胡粉《ごふん》を塗つた木彫の仏像としか思はれない首が、持ちかへる度に、がくり――とぐらついた。私は抱かれたり、負《おぶ》さつたりした私の幼時の姉、又は皆んなでカルタ遊びをした私の少年時代の姉、それからずつと大きくなつて、既に戯曲や小説に読み耽るやうになつた頃、誘ひ合せて浄瑠璃《じやうるり》など聞きに行つた頃、何かした拍子に、ふと鼻についた姉の肌の匂ひなどを仄《ほの》かに思ひだしてゐた。雪国の女らしい白い肌をした姉は少し甘い腋香《わきが》をもつてゐた。
私はまたそのハイカラであつた、姉の夫の時々の印象をも聯想してゐた。去年の冬亡くなつた彼は、合ひの子のやうな顔をしてゐた。医学生であつたと云ふ彼は、その頃商人であつた。私は彼から英語の綴りを教はつた。結婚してから間もなく、泊りに行つた私に、彼は生理学の書物をもつて来て見せたこともあつた。彼は小学生である私に不似合ひな、その中の一節を指示した。それは何んの理由もなく、日に/\体の痩せ衰へて行く少年のことを書いたものであつた。勿論飜訳書だから西洋の出来事であつた。その家の女中が、夜ごと少年の寝室のドアのなかへ忍び込むといふ事実が発見されたといふのであつた。蒼白《あをじろ》い少年であつた私は、彼からその一節を読みきかされて、遽《には》かに小さい心臓の痛みを感じた。私はその頃、周囲に女の子の遊び友達しかもつてゐなかつた。私はその書物のなかのその話を耳にいれたとき、私もまた何かさういふ罪を犯したことがあるやうな気がしてならなかつた。病身がちな私は、屡々《しば/\》真蒼《まつさを》になつて、母に抱きついた。兎角私は死の恐怖に怯《おび》えがちであつた。
「もうそのくらゐで可《よ》からう。」
兄がふつと言つたので、私は気がついてみると、姉のこちこちした頭髪《かみ》は綺麗に丸坊主にされてしまつた。ぼんの窪《くぼ》のところが、少し黝《くろ》い陰をもつてゐるだけであつた。
死骸を棺にをさめる時、部屋の雰囲気《ふんゐき》が又一層切実になつて来た。歔欷《すゝりなき》の声が起つた。
「なむあみだ、なむあみだ……。」
そしてそれが済むと、人々はそこを離れて、次ぎの部屋へ入つたり、二階へ上つたり、お茶を呑んだり、煙草をふかしたりして、他《ほか》の話をしはじめた。
柩《ひつぎ》が外へ運び出されて、これも金ぴかの柩車《きうしや》に移されたのは、少し片蔭ができた時刻であつた。私は兄と他の人達と、後ろの方の車に乗つた。
やがて町ばなへ出た。そして暫くすると、そこに丘や林や流れや小径《こみち》や、そんな風景が展開した。
私が驚いたことは、自動車の一隊が火葬場の入口へ入つたとき、何か得体の知れない音楽が、遽《には》かに起つたことであつた。雅楽にしては陽気で、洋楽にしては怠屈なやうなものであつた。兎に角|笙《しやう》、※[#「感」の「心」に代えて「角」、第4水準2−88−47]篥《ひちりき》の音であることは確かであつた。私はその音楽の来る方へ行つてみた。それは柩車のなかでかけられた宮内省のサインのあるレコオドであつた。
三時間ほどすると、重油でやかれた姉はぼろ/\の骨となつて、窯《かま》から押出された。
その夕方、私は大阪から来てゐる嫂《あによめ》と一緒に、兄の家の広い客間で、晩餐《ばんさん》のもてなしを受けた。
私は幾度も入りつけてゐる風呂場で汗を流すと、湯上り姿で、二間の床を背にして食卓の前に寛《くつろ》いだ。兄の家の養嗣子《やうしし》もそこで盃《さかづき》をあげた。
この部屋も度々来て坐つたし、年々|苔《こけ》のついてくる庭の一木一石、飛石の蔭の草にも、懐《なつ》かしい記憶があつたが、最近養嗣子がこの土地の聯隊へ転任して来て、その
前へ
次へ
全6ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング