しだたみ》を踏んで、燈籠《とうろう》と反対の側にある玄関先きへかゝつた。直ぐ瀟洒《せうしや》な露路庭を控へた部屋に案内された。良家の若い奥様といつた風の、おとなしやかな女が、お香の匂つた煙草盆や絞《しぼ》りなどを運んで来た。
「風呂はあるね。」
「ございます。お入《はひ》りになるのでしたら、今ちよつと見させますから。」
何か無風帯へでも入つて来たやうな暢《のん》びりした故郷の気分が私の性《しやう》に合はないのか、私は故郷へ来ると、いつでも神経が苛《いら》つくやうな感じだが、今もいくらかその気味だつた。十八九時分に、学窓にもぢつとしてゐられず、何か追立《おひた》てられるやうな気持で、いきなり故郷を飛出した頃の自分と同じであつた。
「鮎を食べに来たんだが、あるだらうね。」
「あります。」
私は庭石を伝つて、潜戸《くゞりど》をくゞつて、薄暗い地階のやうなところを通つて、風呂場へ行つた。総《すべ》てこの町の、かうした家では、何か薄暗い土倉《つちぐら》のやうな土間があつて、それが相当だゝつ広い領分を占めてゐるので、夏は涼しい。
上つてくると、女中がやつて来た。
「鮎は何にしませうか。」
「言ふのを忘れたが魚田《ぎよでん》が食べたいんだ。」
女中は引返していつたが、直ぐ再びやつて来て、鮎は大きいのが切れてゐて、魚田にならないと言ふのであつた。
「あゝ、さう。」私は困つた。魚田以外のものは食べたくなかつた。
「しかしそんなに大きくなくたつて……どのくらゐなの。」
「さあ……ちよつと聞いてまゐります。」
すると女中は少し経《た》つてから、部屋の入口に来て、
「鮎はございませんさうですが……。」
「小さいのも。」
「は。」
「だから先刻《さつき》きいたんだ。それぢや仕様がないな。」
料理が二品私の前におかれた。
でつぷりした、人品の悪くないお神が部屋へ入つて来て、
「鮎があると申し上げたの。」
「さうなんだ。」女中に代つて、私が答へた。
「私は鮎を食べさしてもらふつもりで、上つたんだし、それ以外のものも、かういふものは食べられないんで。こつちで註文できないとすると……。」
少し極《きま》りが悪い思ひを忍んで、私はお神と女中に送られて、そこを出た。あれだけの構へで、今時分鮎がないのも可笑《をか》しかつたが、女中の返辞がだん/\違つて来たのも不思議であつた。
私は通りへ出て、そこから一町ほど先きにある、今死んだ姉の末の娘の片づいてゐる骨董屋《こつとうや》へ飛込んだ。骨董屋といつても、店先きには格子がはまつてゐた。清らかに片づいたその店には、何一つおいてなかつた。私は八十を幾年《いくつ》か越した筈の、お婆さんに断《ことわ》つて茶の間の前にある電話にかゝつた。そして甥《をひ》を呼出した。
「それあ多分生きた鮎がなかつたんでせう。あすこでは、死んだ鮎はつかひませんから。」
私は甥に教はつて、近くにある別の料理屋で辛《から》うじて食慾だけは充たすことができたが、無論生きた鮎ではなかつた。
翌日の午前、納棺式が始まる頃には、私は睡眠不足と、怠屈と、お経と、想像以上の暑さとにうだつてしまつてゐた。今一人の妹とか、幾人かの姪《めひ》や甥《をひ》、又|従姉妹《いとこ》たち――その他の人達とも話を交《まじ》へたりして、各人のその後の運命や生活内容にも、久しぶりで触れることができた。こんなことでもないと、一々訪ねることもできないやうな人達であつた。その中には、産れたばかりの赤ん坊に乳房を含ませてゐる姪の娘もあつたが、私より年上の姪もあつた。兎《と》に角《かく》彼等は――私と私の子供達をも含めて、みんな私の父から発生した種族であつた。多少幸不幸の差はあるにしても、一様にどこかへ紛れこんで生きて来、生きつゝある訳であつた。私自身お上品ぶつた芸術家の矜《ほこ》りなんかは、疾《とつ》くにどこかへ吹飛んで、一人の人間として、何か大衆のなかに働いてゐる人の安らかさを思ふやうになつてゐた。都会的の刺戟《しげき》でもなかつたら、生きることに疲れきつた私は、疾《とつ》くにへたばつてゐたに違ひなかつた。
土蔵の屋根の上の棚に這《は》はしてある葡萄《ぶだう》の葉蔭から来るそよ風に吹かれながら、二階座敷に寝ころんでゐた私は、眠れもしないので、また下へおりて行つた。
人が多勢仏間に立つてゐた。
「湯棺だ。」
私も人々の後ろへ寄つてみた。嫂《あによめ》や姉や、死んだ妹の二人の娘や、姪たちは、手にハンケチをもつて、涙をふいてゐた。
「なむあみだ、なむあみだ……。」
歔欷《すゝりな》くやうな合唱が、人々の口から口に呟《つぶや》かれた。
湯棺がをはると、今度は剃髪《ていはつ》が始まつた。法被《はつぴ》を着た葬儀屋の男が、剃刀《かみそり》を手にして、頭の髪をそりはじめた
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