宿屋の前へ来かかったとき、母親と車夫との話し声を聞きつけて、薄暗い窓の簾《すだれ》のうちから、「鴨川《かもがわ》の姉さまかね。」と言って、母親の実家《さと》の古い屋号を声をかけるものがあった。見るとそこに髯深《ひげぶか》い丸い顔が、近眼鏡を光らしてニコニコしている。
その顔はじきに入口の格子戸《こうしど》の方へ現われた。
「おや、みんなやって来たやって来た。」と言う、ここの女主《おんなあるじ》の声も耳に入った。
しばらくすると帳場の次の狭苦しい部屋で物の莫迦叮寧《ばかていねい》な母親と、ここの人たちとの間に長い挨拶《あいさつ》が始まった。
気象の烈《はげ》しい女主は、くどいお辞儀を続けている母親を見下すようにして、「東京は田舎と異《ちが》って、何もしずに、ぶらぶら遊んでいるような者は一人もいないで、為《ため》さあのような精《ずく》のない人には、やって行かれるかどうだか私《わし》ア知らねえけれど、まず一ト通りや二タ通りのことでは駄目だぞえ。」と、ずけずけ言った。
「そうでござんすらいに……。」と、母親は淋《さび》しい笑顔《えがお》を作って、ずらりと傍に並んで坐った子供を見やった。
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