明朝《あした》はどうでも来て下さるだろうね。」母親は行李《こうり》を一つ股《また》の下へ挿《はさ》んで、車夫が梶棒《かじぼう》を持ち上げたときに、咽喉《のど》の塞《ふさ》がりそうな声を出して言うと、父親は頷《うなず》いて傘に包みを一つ下げながら、帽子を傾《かし》げて停車場前の広場へ出て行った。
 お庄は尻《しり》から二番目の妹と、一つの車に乗せられた。汽車に乗る前に、父親に町で買ってもらった花簪《はなかんざし》などを大事そうに頭髪《あたま》にさしていた。
 車は湯島の辺をあっちこっちまごついた。坂の上へあがると、煙突や灯《ひ》の影の多い広い東京市中が、海のような濛靄《もや》の中に果てもなく拡がって見えたり、狭いごちゃごちゃした街が、幾個《いくつ》も幾個も続いたりした。そのうちに日がすっかり暮れた。
 門構えや板塀囲《いたべいがこ》いの家の多い町へ来たとき、がた人力車《くるま》の音が耳につくくらいそこらが暗くシンとしていた。そこは明神《みょうじん》の深い森の影を受けているようなところで、地面が低く空気がしッとりしていた。碧桐《あおぎり》の蔭に埃《ほこり》を冠《かぶ》った瓦斯の見えるある下
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