りて、暗い方へ曲って行った。おろおろしていた母親の顔も目に浮んだ。
 お庄は広々した静かな眼鏡橋《めがねばし》の袂へ出て来た。水の黝んだ川岸や向うの広い通りには淡い濛靄《もや》がかかって、蒼白い街燈の蔭に、車夫《くるまや》の暗い看板が幾個《いくつ》も並んでいた。お庄は橋を渡って、広場を見渡したが、父親の影はどこにも見えなかった。お庄は柳の蔭に馬車の動いている方へ出て行くと、しばらくそこに立って見ていた。駐《とま》った馬車からは、のろくさしたような人が降りたり乗ったりして、幾台となく来ては大通りの方へ出て行った。
 暗い明神坂を登る時分には、背《せなか》で眠った弟の重みで、手が痺《しび》れるようであった。
「それじゃまたどこかそこいらを彷徨《ぶらつ》いているら。」と、主婦は独りで呟《つぶや》いていたが、お庄は母親に弟を卸《おろ》してもらうと、帯を結《ゆわ》え直して、顔の汗を拭き拭き、台所の方へ行って餉台《ちゃぶだい》の前に坐った。
 お庄がある朝、新しいネルの単衣《ひとえ》に、紅入りメリンスの帯を締め、買立ての下駄に白の木綿足袋《もめんたび》をはいて、細く折った手拭や鼻紙などを懐に挿み、
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