上にしまい込んで、出がけに母親に勧めた。
「私はヘイ。」と、母親は二十日《はつか》たらずも結ばない髪を気にしながら言った。
「お安さあは寄席どころではないぞえ。」と、主婦は古い小紋の羽織などを着込んで、莨入れを帯の間へ押し込みながら、出て行った。
母親は東京へ来てから、まだろくろく寄席一つ覗《のぞ》いたことがなかった。田舎にいた時の方が、まだしも面白い目を見る機会があった。大勢の出て行ったあと、火鉢の傍で、母親は主婦《あるじ》が手きびしくやり込めるように言った一ト言を、いつまでも考えていた。気楽に寄席へでも行ける体にいつなれるかと思った。
「私は東京へ来て、商業《これ》に取り着くまでには、田町で大道に立って、庖丁《ほうちょう》を売ったこともあるぞえ。」と、主婦の苦労ばなしが、また想い出された。
自分には足手纏《あしでまと》いの子供のあることや、長いあいだ亭主に虐《しいた》げられて来たことが、つくづく考えられた。
「あの人も、えらい出ずきだね。」
やがて女中と二人で、主婦の蔭口が始まった。
皆の跫音《あしおと》が聞えた時、火鉢に倚《よ》りかかって、時々こくりこくりと居睡《いねむ》
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