方に坐っていて、柱も天井も黝《くろず》んだ、その油屋という暗い大きな宿屋の荒れたさまを目に浮べた。そこは繭買《まゆか》いなどの来て泊るところで、養蚕期になるとその家でも蚕を飼っていた。主《あるじ》は寡婦《やもめ》で、父親は田舎にいる時分からちょいちょいそこへ入り込んでいた。お庄の家とはいくらか血も続いていた。
 母親は齲歯《むしば》の痛痒《いたがゆ》く腐ったような肉を吸いながら、人事《ひとごと》のように聞いていた。
「それ、そんなこンだろうと思ったい。」と、主婦《あるじ》は吐き出すような調子で言った。
「あすこも近年は料理屋みたいな風になってしまって、ベンベコ三味線も鳴れア、白粉を塗った女もあるせえ。」
「いっそもう、そこへ居坐って出て来なけアいい。」母親も鼻で笑った。
「出て来なけアどうするえ。稚《ちいさ》いものがいちゃ働くことも出来まいが……。」
 小父は主婦とお庄とをつれて、晩方から寄席《よせ》へ行って、帰りに近所の天麩羅屋《てんぷらや》で酒を飲んだ。
「小崎の姉さまも一ト晩どうだね。」と、田舎の小父は大きな帽子のついた、帯のある鳶《とんび》を着ながら、書類の入った折り鞄を箪笥の
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