んだで、そのくらいのことは何でもない。」
「少し昵《なじ》んでからの方がいいでしょうよ。」と、女も気乗りのしない顔をしていた。
 お庄はその晩、簪《かんざし》など貰《もら》って帰った。
 花見ごろには、お庄も学校の隙《ひま》にここの店番をしながら、袋を結《ゆわ》える観世綯《かんぜよ》りなど綯らされた。

     十

 品物の出し入れや飾りつけ、値段などを少しずつ覚えることはお庄にとって、さまで苦労な仕事ではなかったが、この女を阿母さんと呼ぶことだけは空々《そらぞら》しいようで、どうしても調子が出なかった。それに女は長いあいだの商売で体を悪くしていた。時々頭の調子の変になるようなことがあって、どうかするとおそろしい意地悪なところを見せられた。お庄はこの女の顔色を見ることに慣れて来たが、たまに用足しに外に出されると、家へ帰って行くのが厭でならなかった。
 お庄は空腹《すきはら》を抱えながら、公園裏の通りをぶらぶら歩いたり、静かな細い路次のようなところにたたずんで、にじみ出る汗を袂《たもと》で拭きながら、いつまでもぼんやりしていることがたびたびあった。
 慵《だる》い体を木蔭のベンチに腰
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